2013年3月16日土曜日

母が遺して逝ったもの

先月他界した母の後年は病気と障害との闘いだった。持ち前の忍耐力と精神力で苦しい状況も何とか切り抜けてきた。まさに人生とは闘いだということを身を持って教えてくれた。いつも病気や障害と闘って生きていた母が目に浮かぶ。 37歳頃に受けた子宮外妊娠の手術による輸血でC型肝炎に感染、後に肝硬変を患い、50代半ばで胃癌のため胃の大部分を切除、この時に受けた手術による輸血で両下肢麻痺を引き起こす難病の原因になるウィルスに感染して歩行困難になった。そして80歳を過ぎ腸閉塞と肺炎を併発、極めて危険な状況の中、手術は成功、しかし度重なる腸からの出血のため、腸の再手術、人工肛門を余儀なくされたが奇跡的に生き延びることができた。その3年後の昨年11月には、尿路感染症からの敗血症で絶食状態が続き何とか持ちこたえ、昨年末には、流動食ではあるが3度の食事が取れるようになり体力が回復してきたように思えたが、先月2日再び敗血症による高熱に襲われ、心不全をおこし、ついに力尽きてしまった。

50代半ばで難病を引き起こすウィルスに感染し、肢体不自由の身になってからは日常生活の不便さは勿論、同世代の女性が普通に楽しんでいた旅行、温泉、買物、食べ歩きなどの楽しみも奪われていた。しかし主婦という立場上、不自由な足を引きずりながら家族のために懸命に家事もこなさなければならない時期もあった。一時的に絶望感に打ちひしがれることはあったが、常に自分の病気と障害と闘い、出来るだけ人に頼らず、デーサービスなどささやかな楽しみを見つけ前向きに生きていた。そんな中にあっても頭の中はいつも自分のことよりも子どもや孫たちへの想いや心配事で一杯だった。

約3年前、肺炎を併発しながらの腸閉塞の手術後、何度も集中治療室のお世話になったが、その度に母は、恐ろしい程、苦しんでいた。心拍数が1分間に100から180位まで恐ろしく速くなっていた。臆病者の私は,見ていて本当に辛く怖かった。しかしこの時私に一つの考えが浮かんだ。”母は今、生きることは闘いだということを身を持って教えてくれている。残酷なようだが、これから厳しい社会の現実と向き合わなければならない大学生の息子が、祖母の生きるための真剣な苦闘を目の当たりにすると,何かを感じてくれるかもしれない。” 翌日早速息子を連れて集中治療室の母を見舞った。 ”お祖母ちゃんは、ただ息をするだけでもあんなに苦しんでいる。苦しんで一生懸命生きようとしている。楽に息をして普通に生きられるということだけでもありがたいことがわかるな。”という私の言葉を、息子は、それまでに見せたこともないような真剣な表情で無言のままただただ頷いて聞いていた。奇跡的な回復の後、敗血症に侵されるまでの約3年間、持ち前の勤勉さで、リハビリ、食事と生きるために懸命に前向きに頑張っていた。

80歳を過ぎての2度の開腹手術、大量の輸血、敗血症とこれでもか、これでもかと母の寿命を脅かすものと懸命に闘い、心臓も頑張って頑張りぬいたが度重なる敗血症の高熱についに心不全をおこし力尽きてしまった。

母が見せてくれた類まれな忍耐力と精神力は、このまま闇に葬り去ってしまうのは、娘としてとても忍びがたいという思いがする。母が遺した形のない遺産として多くの人に語りついでいきたいという思いに駆られている。

お母ちゃん、本当に長い闘病生活おつかれさまでした。そして最後に、たくさんの愛情をありがとう。 今は、ゆっくり安らかに休んでね。











2013年3月1日金曜日

私に行かんといてと言ったのに、逝ってしまった母

母がこの世界から去って、4週間になろうとしていますが、直後よりも今ごろになって日増しに寂しさというか喪失感に苛まれています。21年前祖母が他界した時もそのような時期がありましたが、今回の母の場合、その比ではありません。 3年間、往復4時間の道のりを週2回遠距離介護に通い、母の在命中は、”いつまでこんな状況が続くのか”と、イラだち、ついには、、弱り果てた母にまで、面と向かって、不満をこぼしてしまった親不孝な私、こんなに早く母と別れなければならないと知っていたら、もっと母とすごす時間を大切にして動画や写真など記録や思い出作りに励んだのにと、悔やまれます。 母を失った今頃になって、母と過ごした全ての時間が貴重で懐かしい思い出となり、母が生きていた頃に戻って、もう一度会ってみたいというかなわぬ望みに悩まされています。

病気のため母が亡くなる前の2週間は、全く顔を会わせておらず、息を引き取る30分前に初めて知らせを受けましたが、間に合わず最期も看取ることができなかったことが、とても心残りです。

亡くなる1ヶ月程前の今年のお正月明けのある日に見舞った時のことを思い出すと、胸を締め付けられる想いがします。 私が、少しでも母のベッドから離れようとすると、その度に、私の名前を呼び、”行かんといて!”と叫びました。(その頃は、体力的にかなり弱っていて、普通は、声も出にくかったのですが。)それまでそんなことは一度もなかったので驚き、後ろ髪を引かれる想いで部屋を出たのを思い出します。今、思うと、一人ぼっちの孤独の中で、迫り来る死の影に怯えていたのでしょうか.......結局は、その1ヶ月足らずのうちに、自らあっけなく逝ってしまったのですが.......

最後に見舞ったのは、1月18日。この日、母の病室に行き、眠っていた母の耳元で、”お母ちゃん、来たで!”と、声をかけると、すぐ、目を開き、ほんの3日前に顔を合わせたところなのに、”長いこと来なかったな."と、とぼけたことを言って迎えてくれました。この頃は自発的にいろいろな話をする体力もなかったのですが,” 葬式するんか?”と、急に突飛なことを言ったりしました。その時は全く思いもよりませんでしたが、死期が迫り、魂がこの世とあの世(3次元と4次元、5次元?)を行ったり来たりしていたのかもしれません。あの時点で母は、体は私と同じ時間と空間を共有していましたが、魂は、2週間後の未来の世界にあり、そこから私に話かけていたのかもしれないと思ったりします。約2週間後に、兄から緊急の知らせを受け、駆けつけた時には、2週間ぶりに対面した母は、既に冷たくなっていました。この2週間ぶりの無言の対面を思うと、底のない深い悲しみに沈みそうですが、2週間早く、最期の時を迎えた母の魂と会っていたと考えると、気持ちが慰められます。

それでもやはり時間を戻せるなら、亡くなる2週間前にもどり、毎日母を見舞って、ずっと母に寄り添い、そして、その時には、私が子どものように、”お母ちゃん、行かんといて!”と、叫んで最期を看取りたかった。