2011年3月19日土曜日

突然の無慈悲な大地震が...

先週、東日本を突然、襲ったあの巨大地震......被災地から離れたところに住んでいて、自分や家族はもちろん親類の誰ひとりとしてその被害を受けなかった私が下手な同情をよせるコメントをしても実感の伴わない偽善的なものになってしまうでしょう。こんなことをいうと不謹慎なようですが、あの恐ろしいニュースを知った時、"自分の住んでいるところじゃなくて良かった”というのが、最初の正直な気持ちでした。毎日テレビで日ごろの想像を遥かに超えた惨状を目にして、小銭を寄付すること以外に何の助けもできない無力な自分...更にともすれば、大津波で街が壊滅していく様子を映画でも見るように、娯楽的に鑑賞している無神経な自分...情けないです。




16年前に関西を直撃した、阪神、淡路大震災の時のことを思い出しました。大きな被害はありませんでしたが、現在の家に引っ越して来て3か月足らずの時でした。夜明けの激しい揺れに飛び起こされて、揺れている間の一瞬、”家が潰れて自分の命も、もはやこれまでか”と感じたりしました。その日は、電話が不通になっていて、両親の住む実家のことが気がかりでした。夕方になり母からの電話が繋がり、”あんたのことが一番心配やった”という声を聞いてホッとしたことなどが昨日のことのように思い出されました。 今日、テレビで、若い女性が、いろいろな避難所を廻り、必死でお母さんを探されているのを見ました。涙ながらに”とにかくどこかで生きていてほしい。どんな形でもいいから無事であることを知らせてほしい...私が彼女の立場なら同じことをして、同じことを言ったでしょう。一緒に泣いてしまいました。





連日のテレビなどの報道を見ていて自分なりに感じることがいくつかありました。ろくな暖房設備、衛生設備もなく、限られた食料の供給で不自由で落ち着かない避難生活を強いられている被災者の多くの方が、”生きていただけでも幸せです。”とコメントされていていました。自分の普段の当たり前の生活がいかに贅沢なものであるかと改めて考えざるを得ませんでした。東京都知事の石原新太郎さんが最近、例によって、上から目線の発言”我欲に走りすぎた日本人に対する天罰云々..."で、又、物議を醸しました。石原さんの言うように、天罰が、日本の一部の地域に集中して、何の罪もない人々に与えられたとしたら、この世界は、あまりに不条理すぎます。 ただ、自分も含めて、お金と物にがんじがらめに縛られ、欲望の奴隷になってあくせくしている多くの現代の日本人が、愛する人を失った被災者の悲しみや、不自由な生活を強いられている被災者のご苦労をテレビを通して目にして、”私達にとって本当に大事なもの、必要なものは何かということをふと考えたのではないでしょうか。 




東京電力福島第1原発の事故による放射性物質の大量放出の恐れも心配されています。特に原発周辺にお住まいの方や関東地方にお住まいの方は、大変なストレスになっていると察します。このことに関して何の専門知識もないどころか、理系音痴の私にとっては、避けたい話題です。ほんのつい最近wikiで調べてわかったことですが、日本は諸外国に比べて、原発の数が異常に多いということです。フランスに次いで世界の中で2番目に多いようです。狭い面積の国土、しかも地震・災害大国で、こんなにあって大丈夫なの?と子どものような素朴な疑問が浮かびました。これは、自分自身についてもいえることですが、自分の身の安全と命に関わるような重要な社会的な問題に対しても、”その筋のお偉い賢い人に任せておけば、大丈夫”という他力本願的なムードが日本の一般庶民の中に伝統的に蔓延しているような気がします。”原発問題”に関しても、その安全性と必要性などについて、大きな国民的議論になったことがあるでしょうか?一大事が起こってから大騒ぎになる問題が多い様な気がします。このことに関しては、日本の独特の社会事情や教育事情が絡んでいて、個々人の力では動かし難いものが背景にあります。 封建時代が長く続いた上に、明治時代以来の軍隊的な教師中心の受け身教育が現在まで続き、ひとり、ひとりの意見を尊重するという姿勢が日本のエリートや組織のトップに希薄であることから、”言っても無駄なだけ”という私たちの潜在意識に刻み込まれた全体的な諦めモードがその一因だと思うのですが...





それにしても自然の力は、ひとつ間違うと何と恐ろしく無慈悲なものでしょう。テレビを見ていても辛いです。これ以上の不幸がおこりませんように、そして、一日も早く震災で悲しい経験やご苦労をされている方々のこころの傷が癒え、再び平穏な毎日が訪れますように...




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