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2012年12月21日金曜日

現存する世界最古の企業

自民党の圧勝という結果に終わった衆議院選挙。多くの人が民主党の政治に失望した結果なんでしょうが、長年に渡って行われてきた官僚、財界癒着の自民党政治がほんの数年の期間で刷新され生まれ変わるとは思えません。特に緊張が高まっている中国、韓国、北朝鮮といった周辺諸国と更なる軋轢が生じないか不安です。民主党が掲げた脱原発はどうなるのでしょうか?マスコミは、今の日本人の政治志向は一般的に保守的になっていると言っていますが、どうなんでしょうかね.....

これに対する善し悪しはさて置き、保守的で伝統を重んじる日本人の気質によって育まれてきた世界に誇れる技というものがこの国には、多くあるようです。これを裏付けるように、日本には、創業100年以上の企業が全国に2万2219社あり、そのうち創業500年を超える企業は39社存在するそうです。お隣の中国や韓国では、伝統的に商いは卑しい者のすることと見なされていて財を成すと、子どもには学問を奨励し、他の道に進ませるので老舗が殆ど存在しないようです。

日本は世界一最多の老舗企業を有し、現存する創業200年以上の企業が3113社あり2位ドイツ1563社となっています。中でも日本の老舗企業トップは、大阪市天王寺区にある ”金剛組” という建設会社(高松コンストラクショングループ)で、創業は、な、なんと飛鳥時代の578年ということで日本のみならず世界最古の企業として世界的に認定されています。1400年に渡る歴史の中で、主に寺社仏閣建築の設計、施工や文化財建造物の修復に携わってきました。創業から1955年の法人化を挟んで2005年の経営破綻まで金剛一族による経営が存続していましたが、同年11月、高松建設の全額出資により新金剛組が設立されました。

578年、四天王寺を建立するため、聖徳太子が百済から招いた3人の宮大工の中の一人であった金剛重光によって創業されました。593年に四天王寺、603年に法隆寺を創建し、この両寺院を築いた工法は、”金剛組 組み上げ工法” として、現在にも生きているそうです。四天王寺おかかえの宮大工として、戦火などによって7度の焼失に見舞われた四天王寺の再建に歴代の金剛組が取り組みました。他にも大阪城の建設や法隆寺の改築などにも携わりまさに日本の歴史と共に歩んできた企業といえます。

金剛組の伝統的工法である”組み上げ工法”とは、木材を釘などの金物を一切使わずに組み上げていく独特の手法です。釘は一旦緩むと元に戻ることはありませんが、木材を組み合わせたものは、揺さぶってもまた元に戻っていくそうです。こうした伝統に育まれた知恵と技が地震多発国日本において現代まで数多くの貴重な文化遺産を残す源となりました。

永い歴史の中、金剛組は幾度となく時代の波に振り回され、試練と闘ってきました。金剛家は江戸時代まで、四天王寺お抱えの宮大工として、定まった収入を得ていましたが、1868年、明治元年に出された神仏分離令の余波を受けて四天王寺は寺領を失い、金剛組への禄は廃止されました。以後、他の寺社にも進出することを余儀なくされました。昭和に入っても、更に苦難の道は続きました。無類の職人気質であった37代金剛治一は、営業活動には全く興味がなく金剛組の財政は極度に困窮しました。治一はこれを先祖に詫び代々の墓前で自殺しました。妻のよしえが歴代初の女性棟梁として38代を継ぎ、東西に奔走して難を逃れました。

第二次世界大戦中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事には恵まれましたが、寺院関係の仕事は皆無になりました。それに加え、政府による会社統廃合策のために他社に併合される危機にも見舞われましたが、軍事用の木箱を製造するなどして辛うじて社の存続を守りました。

戦後に入り1955年には、39代金剛利隆が経営の近代化を図り、株式会社 金剛組が誕生しました。以後、社寺建築だけでなく、広く一般建築にまで業務を拡大しました。マンションやオフィスビルといった現代建築にも携わりましたが、業界の大手と同じ土俵での価格競争に巻き込まれた結果、経営危機に見舞われ、2005年、高松建設によって救済されました。これにより金剛家一族は経営の表舞 台から撤退せざるをえなくなりましたが、現在も39代金剛利隆氏が相談役として残っておられます。




2012年12月2日日曜日

ムサカリ絵馬

今日のテーマに関しては、数年前 夕刊のコラムか何かで初めて知りました。、山形県に明治の初め頃から現在にかけて伝わる風習で、”ムサカリ”とは、土地の方言で”結婚”を意味する言葉だそうです。何らかの事情で若くして亡くなった息子や娘のために、彼らが幻の配偶者と結婚式を挙げている情景を想像して描かせた絵馬をお寺に奉納します。その絵馬を”ムサカリ絵馬”と呼びます。山形の村山地区の社寺に集中して見られ、天童市の若松寺や山形市郊外の立石寺がよく知られているそうです。近年の”ムサカリ絵馬”は写真を合成したものが多く、男女が洋装で教会式の結婚式の風景のものまで登場しているとか。いずれにせよ、親より先に旅立った薄幸な子どもに対して”せめてあの世で良い伴侶に恵まれ、幸せになって欲しい”という切なる親の願いと”我が子の晴れ姿を見たかった”というかなわぬ望みとが重なり、結婚式というおめでたい場面なのに、悲しさと切なさが伝わってくる不思議な絵馬です。

岩手県遠野市では、これと似た”供養絵額”というものを寺院に納める習慣があります。これは亡くなった人があの世で送っているであろう平和な日常生活を想像して大画面に描いたもので、江戸時代に始まり現代まで続いています。 19世紀のアメリカでも”モーニングピクチャー”という亡くなった子を中心とする家族のポートレートが盛んに描かれていたそうです。こちらは、何十年後に描かれたものでも子どもの姿は亡くなった時のままです。

”ムサカリ絵馬”のような”死後結婚”あるいは、”冥婚”の習俗は中国を始めとする東アジアと東南アジアに古くから見られ、人間の女性に見立てた”花嫁人形”を遺体と共に柩に納めるという穏やかなものから、結婚相手として選ばれた人間が殺害され夫婦として共に埋葬されるという非常に過激なものまであるそうです。中国の山東省では、いまだに、誘拐された女性が冥婚のための花嫁として売買され、殉葬させられるという悲劇が存続しています。


ムサカリ絵馬 (1)

ムサカリ絵馬 (2)



2012年11月22日木曜日

隠れ念仏と隠し念仏ーキリスト教だけではなかった日本の宗教弾圧

 


近所のスーパーで買い物をしていると、このところ連日クリスマス関連の音楽が鳴り響き、”今年も残り少くなったな”と思い慌ただしい気分になる。クリスマスといえば、キリスト教徒の祭りであることは言わずもがなである。私は単純なので、アメリカ人などの西洋人は、一様に、日本人の年賀状に相当するものがクリスマスカードだと思っていた。もしあるアメリカ人がユダヤ教徒だったり、回教徒だったりしたら、クリスマスカードを他人から贈られると激怒するらしいので、相手の宗教を確認してからカードを贈らなければならないという。日本人は宗教には寛容であるとよく言われるし、これは、信仰に無関心であることの裏返しであるとも言われる。形式だけの仏教徒が多数を占めるという土壌の中では熱心な信仰を持っている人は、疎ましがられ、宗教そのものを毛嫌いする人も少なくない。先に”形式だけの仏教徒が多数を占める”と書いたが、多くの日本の仏教徒は、何らかの救いを求めて熱心に信仰しているのではなく、葬儀や年忌供養などで寺や僧侶と関わる程度なのではないだろうか。

にもかかわらずかってこの国には、少なくとも2つの異なった熱心な信仰グループが存在した。一つは、禁制後も潜伏し弾圧と迫害の中で信仰を200年以上も守り続けた”隠れキリシタン”と呼ばれた人々、もう一つは、講と呼ばれるネットワークで身分の違いを超えて人々が結びつき、全国規模でそれぞれの講が地下で接触していたと言われる浄土真宗門徒である。この集団は、強力な組織で人々が団結し、一向一揆や石山合戦で支配者を倒したり苦しめた。江戸幕府は西洋人による日本の征服(植民地化)を恐れて、檀家制度(寺請制度)によって寺と家を強制的に結びつけ、キリスト教徒を徹底的に撲滅しようとした。日本人に圧倒的に仏教徒が多いのもこの辺に起因している。だが、それが権力から押し付けられたに等しいものだったので、人々の魂の救済だとか日本人のこころを揺さぶる物にはならなかった。浄土真宗に対してもキリスト教のような全国的な禁制こそしかれなかったが、檀家制度によって、門徒を寺に管理させ、自発的な村の講の念仏活動を禁じた。 九州の一部の地方では、浄土真宗の信仰が全面的に禁止され、東北などでは、浄土真宗系のある念仏信仰が禁止され両地域ともに厳しい弾圧と迫害が300年以上も継続されていた。九州の隠れ信者は、権力から隠れ、東北の隠れ信者はそれに加えて、浄土真宗本山からも隠れていたという。前者は、”隠れ念仏”、 後者は、”隠し念仏”と呼ばれていた。今日は、それぞれの地元以外ではそれほど知られていないこの”隠れ念仏”と”隠し念仏”を取り上げる。 日本人は、本来、非常に信仰心の篤いこころを持っていたが、長年そうしたものが、骨抜きにされていたのだということを感じる。



隠れ念仏


隠れ念仏とは


九州南部の鹿児島、熊本、および宮崎の一部の地方(旧薩摩藩、旧人吉藩)では、近世の300年あまりの間、浄土真宗が禁制になっており、幕藩権力から隠れてその信仰を守り続けた集団で、真宗禁制の弾圧の中、密かに、本山である京都の本願寺とのつながりを保ち、命がけで、多額の志納金を送ったりしていた。


なぜこの地域で真宗が弾圧されたのか


親鸞、蓮如が広めた浄土真宗の念仏の教えは、念仏によって集団を組む門徒たちが、一揆を起こして既製の権力を倒してしまうという中世ー戦国時代に北陸で盛んだった一向一揆を介して、各地の為政者に伝わっていた。当然、権力者は、真宗(一向宗)門徒に対して”恐ろしい”というイメージを抱き、警戒した。とりわけ薩摩藩の真宗門徒は熱心で、彼らから本願寺へ大量の物資が布施として送られていた。ただでさえ苦しい薩摩藩の財政を更に圧迫するのを恐れて禁止したという説もある。薩摩藩では、慶長2年(1557年)、十七代藩主、島津義弘によって書かれた”二十五ヵ条の置き文”において初めて一向宗(真宗)の禁止が公示された。

一方隣の人吉藩では、薩摩藩より早く、弘治元年(1555)、十七代藩主、相良晴広によって出された式目の中で、暗に加賀の一向一揆を理由に真宗禁制の方針が表明された。 相良氏の内訌に乗じて、人吉城に攻め入った北原氏が一向宗伝道の根拠寺である清明寺と関係していたためという説がある。  以降、両藩において300年にわたる禁制が続いた。


どのように信仰したのか


浄土真宗は、蓮如いらい、”講”と呼ばれる組織のネットワークを持っていたが、隠れ念仏の信仰が300年間、地下に潜り続けられた背景にはこのネットワークによるところが大きい。講は ”番役”というリーダーを中心に身分の区別なく組織され、”取次役”を通じて本山の本願寺と繋がっていた。信者たちは、藩の役人に発覚することを恐れて、嵐や雨など悪天候の日を選んで、山中の”ガマ”と呼ばれる暗い洞穴に仏具を隠したり、集って、法座を開いた。戦後、このような洞穴は、”念仏洞”と呼ばれるようになったが、禁制時は、それぞれの講ごとに、密かに念仏洞が設けられていた。薩摩の隠れ念仏の信者達が、真宗が解禁されていた飫肥藩、熊本藩の水俣、高鍋藩などの真宗の寺に薩摩から藩境を超えて度々、”抜参り”をしていたことが記録されている。熊本藩との藩境付近のある村からは、多くの信者たちが、熊本藩水俣の真宗の寺に忍んで行った。その寺の住職や門徒たちは、命がけで監視の目を逃れてやって来る信者たちを歓迎し、寺の本堂の床下に”薩摩部屋”と呼ばれる特別な部屋が設けられ、薩摩の役人が不意に飛び込んでも、発見されないようになっていた。

”隠れキリシタン”が”マリア観音”などの信仰の偽装を行っていたように、隠れ念仏も様々な創意工夫を凝らして自らの信仰を偽装した。傘の形の桐材の容器に親鸞の御影の掛け軸を収めた”傘仏”、まな板に似せた蓋つきの薄い木箱に本尊の掛け軸を収めた”まな板仏”、見かけは箪笥だが扉を開けると仏壇になっているという”隠し仏壇”などが考案された。


拷問と死罪 と仏具の焼却ー逃散


信者の疑いのある者は、藩の役人に捕らえられて自白を強制された。白状するまで続けられたという役人の拷問は、水責め、火責め、水牢、木馬など情け容赦なく残虐を極めたという。拷問の末、白状すれば禅宗に改宗を命じられ、改宗を拒めば処刑された。 武士の場合は、改宗することも許されず、切腹、もしくは、家禄没収のうえ、百姓に落とされ追放となった。 薩摩藩では、”石抱きの拷問”というのも行われ、真宗門徒の疑いのある男子を割れ木の上に正座させて、30キロの平たい石を膝の上に乗せ1枚、2枚、3枚と積み重ねた。5枚になって石の高さがあごの下に及ぶと、皮肉破れ血が流れ骨は砕け、絶命することもあった。


”安楽寺隠れ念仏保存会”によって作詞された”隠れ念仏音頭”の中に”血吹き涙の300年”、”死罪、拷問くりかえす”、”嵐の中のお念仏”という歌詞があり、300年にわたる厳しい弾圧の中で命がけで信仰を守り生き抜いた人々の魂を伝えている。

人吉藩では、地域一帯の信者の家から真宗系の仏像や仏具、仏壇などを探し出してきては、特定の場所で焼却した。その跡地は、”仏像仏具焼却地”として残されており、地元では、”牛や馬を引いて歩いていると、そこにさしかかると足を止めて動かなくなる。”と、長年言い伝えられているそうである。(仏像仏具を焼いた跡だから牛馬も通るのを嫌がる。)


こうした弾圧の中で、九州の隠れ念仏は、北陸の真宗(一向宗)門徒のように一揆という形での抵抗ではなく、土地を捨てて、念仏信仰の自由が許されている隣接諸藩に集団で逃げる”逃散”という形で抵抗した。村ごと逃散するという本格的な集団逃散も行われ、寛政十年(1798)には、2800人の大群衆が、薩摩藩領から隣の飫肥藩領に逃散するという事件が起こった。飫肥藩では、”逃散奉行”と呼ばれる奉行職を設けて逃亡農民に対応した。( 労働力不足に悩む飫肥藩が密かに関わっていたといわれる。)


カヤカベ(カヤカベ教と名乗り現在も信者が存在する)


”カヤカベ”とは、隠れ念仏から派生した一派で、彼らは表面的には神道の信者を装い、本山との関係を絶ち、毎年、霧島神宮への参拝を行っている。しかしその信仰の実態は、親鸞を開祖とする浄土真宗である。信者の家には、神棚があり、それを拝むが、その神棚の壁の向こうには仏像が隠されていたりする。彼らは柏手を打って神棚を拝んでいるふりをして、本当は、隠し仏のほうを拝んでいる。神棚の下の板壁がカヤの木でできた引き戸になっており、一見ただの板張りの壁だが、実は、その奥が隠し仏間になっていることから”カヤカベ”と呼ばれる。






隠し念仏(現在もその信仰が存続している)


隠し念仏は、種々の秘密主義を持つ念仏信仰、民間信仰であるが、その中でも江戸時代を中心に東北地方に広がっていた浄土真宗系の隠し念仏の集団がよく知られているので、ここではそれを取り上げる。東北の隠し念仏の信者たちは、幕藩権力だけでなく、浄土真宗の本山からも異端と見なされたため両方に対して、自らの信仰を隠さざるを得なかった。岩手県を中心として北は青森県のあたりまで、南は、福島県の一部に及び、独特の講という組織で広がっていた。一部の地域では現在もその信仰が存続しており、今でも”信仰を隠し”続けているともいわれている。

基本的には真宗の念仏の信仰であり、本尊として阿弥陀如来像を拝み、親鸞や蓮如の大きな影響を受けている点では、一般の浄土真宗とほとんど変わらない。ただし根本的に違うのはその信仰を表に出さず、ひた隠しにする点である。親鸞や蓮如に起源を求めるものや、京都の鍵屋の流れをくむものなどがあるが、真宗の一派を起源として、その教えの上に東北地方に古くから存在していた土俗的な信仰と、真言密教の儀式などが重なり合って、独特の信仰スタイルになっている。多くの信者は、表向きには曹洞宗などの他の教団の寺の檀家になり、葬式や法事はその寺で行った。表向きに行う葬儀とは別に、隠し念仏の信者たちや講の人が全員集まり、”念仏申し”と呼ばれる儀式も行うといった、完全に二重構造の信仰を持っていた。信者は、既存の寺の教えを表法と呼び、隠し念仏の教えを御内法と呼んでいた。

職業的僧侶や寺院というものは全くなく、徹底して在家の信仰という点にこの信仰の特徴がある。儀式の時にリーダーを務める”善知識”と呼ばれる人も普段は別の仕事を持っており、そのことで報酬を得たり生業にはしない。また、”オモトズケ”や”オトリアゲ”と呼ばれるキリスト教的な儀式がある。子どもが生まれるとすぐに”オモトズケ”という儀式を行い、その子が7歳になると今度は、”オトリアゲ”という儀式を行う。カトリックの幼児洗礼に似ている。

江戸時代、キリスト教禁制を徹底させるために檀家制度が作られ、それは封建制度を支える一つの大きな柱にもなっていた。隠し念仏は、完全に在家の信仰であってどの寺にも属さない。加えて潜伏して活動している信者の信仰の儀式がキリスト教的であったり、真言密教的であったりと、政治権力にとって、当然、不気味であり脅威に感じられただけでなく、浄土真宗の寺院からも許し難い異端と見なされた。仙台藩や盛岡藩では、真宗僧侶の提訴をいれて、隠し念仏の信者に対して、しばしば弾圧が行われた。そういう状況の中、信者たちはさらに深く地下に潜行するようになり、表面的には、禅宗などの他の宗派の寺の檀家になるという形をとって、自分たちの本当の信仰はこころの中に秘め、隠し続けた。信者たちは、土蔵などで密かに集まり儀式を行った。

信者たちが取り締まりや弾圧を受ける度に、皮肉にも秘密結社的な色彩をより強めていき、その秘技性が憶測を生んで、更に異端視されたり、弾圧されることになった。 明治時代になって信教の自由が保障された後も、更に昭和初期でさえも警察がその存在を邪教扱いして不当介入したこともある。マスコミの偏見なども手伝って、深夜に男女が集って、謀略を練っているとか、いかがわしいことをしている宗派だと見られるなど様々な誤解を受け続けた。マスコミなどへの不信感から、今もなお一切を秘密にしている隠し念仏のグループもあり、全体的にも、排他的秘密主義のため、その儀式の全貌は、未だに明らかにされていない。現在も多くの信者達は”口外してはならない”という戒律を守り続け、自分たちの信仰を進んで公にしようとはしない。

東北の隠し念仏について関係者に取材された五木寛之氏が自著の中で、再三述べられているように、この信仰集団は、”良俗を乱す”などと、世間からあらぬ誤解を受け続けたが、決してそのような怪しい宗教ではない。自らの信仰を世間から隠し続けることによって、仲間同士の絆を深め連帯感を強めたといえる。東北という地方は、昔から大量の餓死者を出すほどの凶作に繰り返し苦しめられ、自然環境も厳しい土地柄なので人々の相互扶助の精神、連帯意識が不可欠である。この排他的な信仰が、厳しい冬を生き延びるために必要な人々の仲間意識をより強くする役割を果たしていたのではないか。職業的僧侶も存在せず、寺院も持たず布施もしないという独特の信仰スタイルは、これからの日本人の信仰のあり方について一つの提案を示しているかもしれないと思う。
  


南九州は、昔から身分差別が厳しく、東北は地主と小作との経済的な格差が激しく、共に決して豊かな地方ではなかった。だからこそ人々にとって念仏の信仰が心の支えになっていた。講という組織の中では武士も商人も農民も平等であったという。厳しい弾圧の中で密かに、現世の世界とは別な次元での世界をこころの中に持ち、同じ精神世界を共有する仲間たちと強い絆で結ばれていた。貧しさの中で念仏を唱える一方で、お互い助け合い支え合っていたのだろう。

核家族化が進み高齢者の一人暮らしが増え、都市化の中の無縁社会と相まって、孤独死、孤立死などが問題になっている。孤独なのは、高齢者だけではない。私たちの気づかないところで、毎日孤独と闘っている人は無数にいるはずだ。こうした孤独な人々を精神的に支え合う将来のネットワーク作りが必要である。人の弱みにつけ込む悪徳宗教団体は困るが、これからは、こうした人々を繋ぎ、強力にバックアップする真摯な宗教的リーダーの活躍が期待される時代ではないだろうか。


参考  「隠れ念仏と隠し念仏」 五木寛之
























2012年10月31日水曜日

山窩(サンカ)と家船(エブネ)




戦争を体験した私の両親の子供時代や青春時代、更にご先祖の時代には、今の時代に比べて、自由がかなり制限されていたという。なるほど今の私たちは、江戸時代や軍国主義の時代になかった”言論の自由”というものを享受している。しかし私たちは、ご先祖様よりもはたして本当に自由に生きることが可能なのだろうか。自由にものを考え、感じることができる環境にあるのだろうか。

現代に生きる私たちの頭の中は、少なくとも ”お金と物” ”教育” ”メディア” ”組織”などに
縛られて、江戸時代のご先祖様よりもある点では、不自由な世界に閉じ込められているのかもしれない。人よりも物質的に恵まれた生活をするために、お金と物に振り回され、学校や親は、子どもたちにそのためには、一生懸命頑張って、”良い学校に行き、良い会社に勤めなさい”と教える。メディアは、”勝ち組、負け組”など画一的な価値観を押し付け、 私たちの頭の中は、洗脳された価値観で一杯になり本来の自分を見失い、自分の中に秘めている独自の感性や個性を埋もれさせてしまう。

更に、会社などの組織の中の複雑な人間関係や世間体などにがんじがらめに縛られていて無意識に本来の自分ではない”誰か”を 演じていたりする。抑圧された自我が悲鳴をあげ続けているのに頑張り続けた挙句、うつだとか閉じこもりといった心の病に蝕まれてしまう人々が増加の一途をたどっている。

今回取り上げる、かってこの国に存在(現在もごく少数だが実在するらしい。)した、”山窩(さんか)”とか”家船(えぶね)”と呼ばれた漂白民は、現代の物質社会、管理社会の中で閉塞感をいだいている人々の間で話題になり、様々なアプローチや研究がなされているようだ。

 ”今回これらの漂白民を取り上げる”と偉そうなことを言っても、最初に取り上げる”山窩”については私自身Wikipediaなどの情報を読み取っても頭の中は、かなり漠然としていて、いまいち、実態をつかみきれず、謎の部分が多い存在だ。筆者が充分理解していないものを人様に読ませること程失礼なことはないが、何卒、勉強不足な点は、ご勘弁頂きたい。


山窩 (サンカ)


山窩(サンカ)とは


山窩(サンカ)とは、日本の山間部を生活の基盤として、夏期は、川魚漁、冬期は、竹細工などを主な生業としながら、少数集団で 山野を渡り歩く漂白民のことらしいが、その生活実態は、まだ、充分に把握されていないという。”散家”、”山稼”とも書かれ、ポン、ノアイ、オゲ、ヤマモンなどとも呼ばれたそうだ。居住地は、北海道と東北を除く日本全域にわたり、テントを持って漂白する”セブリ”と一般社会に定住している”イツキ”に分けられるらしいが古くは、定住せず、また、親分を持たず誰からも支配や干渉をされない独立、自由の生活を好み、更に農耕に従事しないことを誇りにさえしていたという。


サンカの生業と生活

生業の主なものは、竹細工で、箕、ざる、ささら、茶筅、箒、籠などを作って、人里に出て売ったり、米などと交換したりした。 他に俵ころばし、小法師、四つ竹、うずめ、さかき、てるつく、獅子、たまい、猿舞、猿女などの遊芸や、山守(やもり)、池番(いけす)、川番人(かもり)、田畑番人(のもり)、係船の番人(うきす)など番小屋にあたる仕事も行っていたという。これらの多くが中世、近世の賤民の人々が従事していた仕事と重なるのが興味深いと思う。

テントを持って移動生活を行う”サンカ”は、”セブリ”と呼ばれ、1ヶ所に数日、短ければ1夜で食器類を携えて他の場所に移動する。テントは、山裾や河原などの水の便の良いところに南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人)と呼ぶ自在鉤を下げていた。テント住まいの他、洞穴を利用した簡単な小屋掛けをするものもあり、何を生業とするかで住居の形態も違っていたようだ。麦やうどんを主食として、川魚、小鳥、山菜などを食べた。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯を作り入浴する方法や、地面を焼いて暖を取る方法など、まるで縄文人の生活を彷彿とさせるような古い習俗も伝えられている。 


起源


縄文人の末裔説、渡来人説、落人説、中世難民説、近世難民説など様々な説があり一定していない。縄文人の末裔説によれば、大和朝廷によって征服された先住民族であり、原日本人である。農耕をし同化することを拒んだ先住民族の中のいくつかの集団は、平地を追われて山に立てこもり、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らし続けた結果、”サンカ”に至ったということになる。しかし、沖浦和光 は、サンカは比較的新しく、江戸時代に度重なる飢饉で山野に逃れた人々を祖とするという”近世末期起源説”を提起している。

サンカの神秘性

”サンカ’に関しては謎の部分が多く、ある人々の説によれば、 かれらの仲間うちのコミュニケーションは、一般人とは違った言葉と文字を用いて外部の者に知られず連絡を密に取ることができる、”シノガラ”と呼ばれる全国のサンカを支配する秘密結社のような組織を持っている、あるいは、互助組織による経済的な保証システムを持っているというものがある。このようなことによって”サンカ”は、非常に謎めいた神秘的な存在というイメージを拡大しているが、サンカの実態が失われてしまった現代では、事実かどうかの検証が困難になっているそうだ。








家船(えぶね)



家船(えぶね)とは、北九州の西海岸から五島列島、壱岐、対馬、瀬戸内海などに分布していた一群の海上漂白漁民の集団で、方言で”エンブ”とも言われていたらしい。(瀬戸内海では”ノウジ”あるいは”シャア”) 古代海部の系統を引く水軍の末裔とも言われているが詳しいことは、不明である。

本拠地を中心として周辺海域を移動しながら盆と正月を除く1年のほとんどを漂海して過ごす。陸に一片の土地も家も持たず(墓を持つ者はいるらしい。)漁業や行商を生業として、家族全員が生活の一切をまかなう”エブネ”と呼ばれる船の上で暮らしていた。一般の漁民と異なり、女性も船に乗り込み共に働き、頭上運搬で行商するのは女性の役目になっていた。まだ明確にされていないが、女性の抜歯、特定の言葉を忌み嫌うなどいろいろ変わった風習や独特の信仰を持っていたという。漁業権を持たないので、漁業権が設定されていない沖合で一本釣りや小網漁をしていた。周辺の村の者から賤視され、通婚しない、共に食事をしない、祭りの宮座に入れないなどの差別を受けていた。

明治維新の近代化の到来と共に、納税の義務化、徴兵制、義務教育の徹底などの一般庶民の管理化、文化的、物質的な生活の普及によって、漂白生活は困難になり、定住生活を余儀なくされ、現在では消滅したと言われているが、瀬戸内海では今でも家船的な漁業が残っているという。








”サンカ ”や”エブネ”と呼ばれた漂白民の起源はまだ明確にされていないが、いずれにせよ少なくとも近代化の波が彼らに押し寄せてくるまで、この日本列島に縄文人のようなライフスタイルを持つ人々が存在していたというのは凄いことだと思う。ある見方をすれば、近代的な工業化によって、国民の大多数を占めていた農民が激減するまでは、権力者のスタイルは変わっても、庶民にとっては、弥生時代の延長が続いていたといえるかもしれない。 先に述べた漂白民の生業は、中世から江戸時代にかけて賤視された人々の仕事と重なる部分が大きく、私の個人的な考えでは、農耕をして税を治めるという大和朝廷が強要する良民(弥生人的農民)になることを拒んだ人々が、そういう縄文人的ライフスタイルを選び、それらの人々が携わった仕事が賤視されるようになったのではないかと思う。もちろん古代から近代に至るまで漂白民を代々世襲している家系なんて滅多にあるものではない。しかしこうした縄文人的な漂白民のライフスタイルは、様々な事情で社会から逃れてきた人々にも、永い時を経て受け継がれてきたのではないだろうか。


現代の物質文明の恩恵を受け、冷暖房設備の付いた住居に暮らしている私達が、ホームレスな漂白民的生活に馴染むことは、たやすいものではない。 私達が物質文明の進歩によって、便利さ、快適さといった恩恵を随分受けていることには疑いの余地はない。しかしそれによって物とお金の奴隷になり家の中に収まりきれない程の様々な物を手に入れ、必然的に大量のゴミを出している。また物質的に不自由のない文明人として暮らすためにある程度の収入を得なければならないが、そのために会社などの管理化された組織の中で本来の自分を抑圧し自由と個性をある程度犠牲にせざるをえない。

近年、年間の自殺者が3万人を超す(14年連続)という発展途上国ではトップクラスの自殺大国になり深刻な社会問題となっている。その背景は、それぞれに複雑であり一括りにはできないが、失業、多重債務、生活苦、仕事のストレスや人間関係の悩みといった現代の資本主義社会の歪み、物質万能社会、管理社会がもたらす負の側面も影響していると思う。

必要最低限の物だけを所持して物にも土地にも組織にも縛られない”サンカ”、”エブネ”といった縄文人的なライフスタイルを持つ人々は、現代人の目には、おおらかな自由人に映るのだろうか。














2012年10月16日火曜日

マタギ

宮大工、伝統的な工芸、芸能など日本の伝統を継承していかねばならない世界では、若い後継者を確保し育成していくことが、厳しい状況となっている。例えば、伝統的な工芸の世界で一人前になるためには、少なくとも10年の修行が必要だといわれる。戦前までは、小学校を終えるとすぐに伝統工芸の師匠の下に弟子入りして修行を始めるのが普通だったそうだ。 戦後の高度経済成長によって、国民の所得水準が飛躍的に伸び豊かになると同時に、教育への関心が高まり、ほとんどの子供が高校に進学するようになった。また、工業化を果たした日本には、それほど修行しなくても、見習いの頃から給与がもらえる職業がたくさん生まれ、旧来の徒弟制度の下で、弟子に満足な給与もし払えない伝統工芸の世界に進む若者が激減してしまったのも時代の避けがたい必然.だった。そうした後継者不足という危機的な状況に追い込まれている伝統的な仕事の一つに”マタギ”という職業がある。

”マタギ”とは、もともと主に東北地方の山間部で伝統的な方法を用いて行う集団猟を生業としている狩猟者集団を指す言葉だそうだ。 山の神に対する信仰が厚く、狩猟で山に入る時は、里の言葉とは違った特別な”山言葉”を使い、狩猟期におけるさまざまな禁忌、獲物の分配方法や、山の神への儀礼などが伝承されている。狩猟対象は熊を中心にシカ、イノシシなどで、冬眠中の熊を狙う独特の猟を考案した。猟は”タテ”と呼ばれる手槍を主に、犬を使い、罠猟や、穴ごもりの中のものをおびき出す方法、大規模な共同の狩り(巻狩り)などの方法で行われた。巻狩りの場合、”シカ”と呼ばれる親方のもと、山小屋に泊まり、集団で生活を共にした。獲物を追い込む”セイゴ”、合図を送る”ムカイマッテ”、銃を撃つ”ブッパ”などで構成され、”シカリ”の指図に従い、それぞれが沢、山の中腹、尾根などの各持ち場につき、谷を巡って、獲物を追い出し、尾根で仕留めるそうだ。狩猟期は、冬と春で、毛皮や編笠を被って何日にもわたって山に入り、夏と秋は、山菜やきのこを採ったり、熊胆を作ったり薬草から薬を抽出したりするそうだ。

多くのマタギは、山への敬意を持って狩猟を行った。自然への畏敬の念と感謝の心を持ち、無責任な乱獲は行わなかったので、環境と生態系は、破壊されず、保護されていた。

厳しい雪山の自然の中で、命懸けで猟を行ってきたマタギは、神に対する厚い信仰心と独特の精神世界をもっている。”山は山の神が支配しており、熊などの動物は、神様からの授かりもの”という信念のもと、数多くの禁忌、独特の風習、慣例、儀礼行事(矢先祝い、矢開き、毛祝、血祭り、血祓いなど)がある。 ちなみにマタギの信仰する山の神様は醜女であるとされ、山に女性を入れることは神の怒りに触れるため、女人禁制の掟がある。

マタギが狩猟で得た毛皮や熊胆は高値で取引され、新潟や秋田には、かって、マタギだけで構成されている村が多数存在したらしいが、近年、人口の急激な増加に伴い、山野の野獣が激減したことにより、狩猟で生計を立てることが難しくなっているらしい。加えて、命懸けの厳しい仕事であることから後継者不足の問題もあり、現在では職業としてのマタギは、殆ど行われておらず、伝統の継承が危ぶまれている。(一部引用ー”13歳のハローワーク” 村上龍)

自然への感謝と畏敬の念というマタギの精神世界と信仰心は、アイヌのそれと共通するものがある。マタギが猟で使っている山言葉には、アイヌ語由来と思われるものが多くあるという。こうしたことを考えると彼らは、古代、大和朝廷によって征服され滅ぼされたという ”エミシ”という狩猟民の末裔なのではないかというロマンに駆られてしまう。(”エミシ”と”アイヌ”の継りについては不明であるが、エミシの残存が中世以降に”エゾ”(アイヌ)と呼ばれるようになったのではないかという説がある。)

最近では、競争社会、組織や人間関係のしがらみから逃れて、脱サラしてまであえてこの危険な仕事に転職するユニークな人もいるらしい。



マタギの掟、山言葉については、こちら





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2012年10月9日火曜日

鬼にされた日本の被征服民

日本で日本人の両親のもとに生まれ育つと、ごく自然に自分を、”日本人”だと考える。しかし何千年、何万年に及ぶ歴史を遡ると、私たち日本人は、いくつかの異なる民族に分かれるらしい。それぞれの民族の集団は、何万年もの間に日本列島の東西南北の様々な方向から順次やって来ては、根を下ろし、先にいた民族に戦いを仕掛け、征服し、あるいは、婚姻し、この日本という土地に根付いていった。こうしたことが数万年の間に限りなく繰り返された結果が今の日本人だそうである。私たち日本人は、いくつかの異なる系譜を持った民族集団が複雑に絡み合い、混じりあっており、決して日本人=単一民族ではない。同様に、大陸や半島など外国の異民族からの影響の上に日本の風土に応じての変化が加えられて独特の日本文化なるものが創出された。

この日本列島に最も古くから住んでいる現存の民族は、アイヌ民族だそうである。彼らの血液からのDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかり、これを根拠に、2008年、国会で”アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議”が満場一致で採択された。 縄文時代の終わり頃から、この日本列島に、大陸や半島からの人々が大量に何波にも分かれて、稲作文化と金属器文化を持って移住してきた。この人々は縄文時代からの先住民を制圧して融合しながら勢力を広げ、やがて北部九州から近畿地方まで進出して、”ヤマトの国” (邪馬台国)を建国した。、卑弥呼様の時代には、他の多くの小国を支配下に置いて、現在の奈良県桜井市の辺りを都として北部九州から関東地方辺りまでを統一した。この頃になると当時の文明の先進地帯である中国からも一つの統一された国家として認められ、彼らは、”倭国”と呼びそこに住む人間を”倭人”と呼んでいた。(当時の日本人が自分達の自称を ”わ(我)”と言っていたからという有力な説がある。)

ヤマトの国の政治権力は、やがて天皇を中心に据えた大和朝廷へと発展を遂げ、更に東北、南九州へと領土を拡大していくが、必然的にそれぞれの土地の先住民の激しい抵抗にあう。異民族の征服を目指す朝廷は、南の抵抗勢力を”熊襲(クマソ)”、東や北の抵抗勢力を”蝦夷(エミシ)”と呼んでいた。既に大和朝廷の支配下に入っていた近畿地方などの先住民族の中には、天皇に恭順することに激しく抵抗を続けていた集団もいた。これらの人々は、”土蜘蛛”と呼ばれていた。”熊襲”、”蝦夷”、”土蜘蛛”と朝廷から異族視され征伐の対象とされた人々は、日本の先住民である縄文人の系統でアイヌ民族に近い人々なのではないかと思う。(東北から西日本に至るまでアイヌ語と思われる多くの地名が現存している。)このような朝廷側にとって、まつろわぬ(服従しない)民は、圧倒的な力によって制圧されていった。

それらの”まつろわぬ民”の中でも、”蝦夷”と呼ばれていた日本列島の東方や北方に住む人々の集団が朝廷にとっては、最大級の手ごわい抵抗闘争集団であった。747年朝廷は、2万7千人を派兵して蝦夷の大征伐(征夷)を開始した。騎馬を駆使した巧みな戦術で当初は、蝦夷軍が朝廷軍(征夷軍)に壊滅的な打撃を与えていたが、797年、朝廷側が10万人という大軍を派兵し圧倒的な勝利を治め、”蝦夷”は滅亡の道を余儀なくされた。

こうした戦争の中で朝廷に帰服した蝦夷は、”俘囚”と呼ばれ、中には、捕虜として国内の各地に移配された人々もいた。(強制的な集団移住) 各地の移住先で度々、反乱を起こしたため、朝廷は、彼らを奥羽(東北)へ送還させるが、残った者もいた。彼らは元来、狩猟民で、周囲の農民とは異なる生活様式だったため、疎外、差別され、各地に残った俘囚部落が被差別部落のルーツの一つとなったという説がある。(近年、有力視されている。徳川幕府が身分制度の安定維持のために創出されたという近世政治起源説は、今日では、殆ど破綻している。)

今でも子ども達に語り継がれている日本の昔話の中には、”桃太郎”や”一寸法師”などの鬼退治を扱っているものが多いが、そこには、日本人が忘れてしまった民族の征服、被征服の歴史が織り込まれている。被征服民は、恐ろしい”鬼”と化し、災いをもたらす邪悪な征伐せねばならない対象として描かれている。征服者の侵略を正当化させるために鬼にされてしまったのだろうが、本当は怖い日本の昔話ー鬼退治だったのだ。ちなみに初代の徳川家康から15代の徳川慶喜まで征夷大将軍という役職の地位にあったが、この征夷大将軍とは、まさに大和朝廷の時代から続いている異民族を征伐する軍のトップのこと。(江戸時代の頃には、単に形式的なものとなっていた。)このことから、日本の歴史の中で異民族の征服、侵略に占める比重が決して小さなものではなかったのではないかと思う。





 



2012年10月2日火曜日

ウィルタ、ニヴフ-アイヌだけではなかった日本の少数先住民族

領土などの問題を巡って、隣国の国々と摩擦が生じ、緊張関係が高まっている中で、そもそも日本人とは何か、民族とは何だろう?と、素朴な疑問に駆られます。もともとこの日本列島には、日本民族という共通の言語、文化、生活習慣、宗教を持った大集団など存在しなかったはずです。少なくとも2000年位昔に遡ると、数多くの異なった言語、文化、生活習慣を持った集団 (村、国)が存在して、それらが争いを繰り返していたと思われます。その後、争いを勝ち抜いた強力な集団のもとにまとめられ、日本という一つの国(ヤマト、初期は、現在の九州から関東地方辺りの範囲?)に統一されていったのでしょう。 

 日本とロシアにまたがる北方先住民族の”アイヌ”は、幕末の1854年、ロシアとの和親条約によって北海道が日本領となり、近代化の明治時代に入って、北海道の開拓を推し進めた政府によって、独自の風習が禁じられ、日本語教育を含めた同化政策を強制されるまでは、北海道、千島、樺太の地で、民族独自の言語、文化、宗教を育んでいました。 アイヌの隣人として樺太の地で暮らしていた北方先住民族、”ウィルタ”と、”ニヴフ”も日露戦争の勝利の後、 日本語教育などによる日本人への同化を強いられました。


ウィルタwiki 


ニヴフwiki



" ウィルタ”も”ニヴフ”も主に狩猟、漁猟によって生活を営み、それぞれが独自の言語、文化を所有していた民族でした。 日露戦争後の条約によって、日本が樺太(現在のサハリン)の南半分の領有権を取得したのに伴い、ウィルタとニヴフを含む樺太の少数民族を特定の地域に強制的に住まわせ、日本語指導などの同化教育を受けさせました。にもかかわらず、彼らには、日本国籍を与えなかったと言われています。このような人々の中には、 太平洋戦争において、スパイとしてソ連(当時のロシア)に送り込まれた人々が多数いたと言われています。敗戦後は、戦犯としてシベリアに抑留され強制労働など苛酷な状況に置かれました。抑留解除後は、勝戦国ソ連による樺太全土の占領に伴い、彼らの故郷から追放され、北海道に強制移住させられました。 日本政府は、このことに対して、日本国籍を持たないことを理由に一切の戦後補償、賠償を拒否しました。

現在、北海道内に住むウィルタとニヴフの人々は、それぞれ数十人程度 と言われていますが正確には不明です。(ロシアでは、ウィルタ300人、ニヴフ2000人程度)