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2014年3月27日木曜日

彼女はサイエンス? (she blinded me with science)

最近の”stap細胞”騒動には本当にイライラさせられます。私は、”stap細胞”だとか”stap幹細胞”とはどんなものなのかよく理解していませんが、このことに関して多数の疑義が生じているにもかかわらず、小保方氏は、依然としてその革命的な万能細胞の発見を主張しており、また彼女を支えている理研という組織も捏造を認めようとしていません。その新型の万能細胞の成功が本物なら、なぜ、小保方氏や彼女の上司でその論文の共著者の人物が表に出てその正当性を主張しないのですか? 革新的な発見を世界中の科学者に向けて証明、主張する論文の中で、発見を証明する根幹となる画像がなんと小保方氏の3年前の博士論文で使われていた画像の使い回しで、しかもそれはstap細胞とは全く関係のないものでした。この一つだけを取ってみても、科学オンチでアタマの悪い私にでも、限りなく捏造に近いことは直感的に解ります。



理研はこの問題についてまだ調査中ですが、のらりくらり時間かせぎ をして、その間に、私達大衆の関心を他へ向けるなどして薄れさせ、やがてうやむやにして忘れさせようという企みなのでしょうか。それとも、更にとんでもない仕掛けで私たちの目を欺こうとしているのかも.......


この研究に対して多額の国家予算が割り当てられようとしているのです。公金詐取の疑いなどで マスコミには厳しく理研を追及してほしいものです。またしても税金がとんでもなく無駄遣いされているかも知れないのに、いまだに ”長い目で見守ってあげましょう”といった意見があるのは理解できません。今朝のA新聞の関連の記事の生ぬるい論調には少しイラつきました。


 東日本大震災によって引き起こされた原発事故の際、地震発生当日にメルトダウンしていたのにもかかわらず、2か月間もの間、国民には全く知らされず、東電と政府はこの事実を隠蔽していたのです。

再び、ヒットラーのある名言(?)を思い出しました。    ” 大衆は小さな嘘には敏感だが、大きな嘘には鈍感である。”








2014年1月11日土曜日

元祖、シンガーソングライターかパンクロッカーか?

先日、テレビのお正月の特番で、100年前の東京に住むある若い夫婦の日常生活をドラマ風に再現した(したつもり)ものを見ました。その中で特に興味を引いたのは、街頭に立って、自作の歌を披露していた演歌師といわれた人でした。そのドラマに登場した演歌師の名前は忘れましたが、実在した歌手だと思います。貧困や生活苦など当時の庶民が抱えるフラストレーションを歌っているので、その歌に共感を持って聞き入る多くの人々に取り囲まれていました。 これが日本の流行歌、大衆歌謡、j-popの原点ではないかなと思ったりしました。

演歌というと独特のこぶしをきかせ、日本人特有の情念や抒情を込めて歌う大人の歌というイメージが強いですが、オリジナルは何と ”演説歌”だったそうです。明治時代に政治を批判、風刺する目的で生まれたプロテストソングで、演説に関する取り締まりが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが、演歌の始まりだとか。 明治時代、自由民権運動の活動家が、自分達の演説、メッセージを歌に託して民衆に伝えた街頭活動が演歌とその歌い手である演歌師の発祥だそうです。最初は、路上ライブのように声を張り上げて歌っていましたが、やがてヴァイオリンで弾き語りをしたり、歌詞カードを売ったりして、徐々に音楽的に洗練されたものも出てきたようです。

歌詞の主な内容が権力への風刺ゆえに、演歌師への弾圧が厳しくなるに従い、次第に歌詞の内容だけでなく音楽的にも抒情的なものに変化していきました。日本の伝統音楽である小唄、都都逸、民謡などを習合したものに西洋音楽をミックスして音楽的に多様になりました。歌の内容も男女の関係や人情の機微を哀愁を帯びた短調の曲想で歌うといったスタイルが定着するようになり、こうした流行歌に対して、戦後、政府は歌謡曲という言葉を作りました。こうして本来の演歌師の歌からは、遠くなっていきました。

落語、漫画、川柳、演歌.......近代化前後から昭和初期の日本の大衆文化、ポップカルチャーの中には、現代よりも貧しく、自由を制限された時代に生きていたのにもかかわらず、社会を風刺を通して、権力を笑い飛ばす庶民パワーが充満していたと窺えるものが沢山あるかもしれないと思います。

亡き父が日ごろ口ずさんでいた歌の中に”ノンキ節” というユニークな歌がありました。 ”大正時代の演歌師によって歌われていた” とだけ説明してもらった記憶があります。

この歌の歌詞と作者については、こちら  (これらの歌が書かれたのは今から100年近く前のことですので、差別的な表現などあるかも知れませんがご了承ください。)

2013年12月29日日曜日

久しぶりに投稿します

今年も残すところあと3日程となりました。 年々、1年の経過が短く感じられます。2月の初めに母を亡くし、11月の終わりには、父を亡くし、今年はこれまでになく寂しい年になり、喪に明け、喪に暮れた年になってしまいました。最近、久々に”The Beatles”のあるアルバムの中のある曲を聞いてドキっとしました。何の前触れもなく突然終わってしまうのです。こうした突然の暴力的な終わり方がまさに人生みたいだと思わざるを得ませんでした。 どちらもかなり弱っていたとはいえ、私にとっては予期せぬ突然のことで、最期を看取ってあげることができませんでした。

安倍首相がこの年の瀬に、靖国神社に参拝して、内外で大きな波紋を呼んでいますが、ただでさえ険悪になっている中韓との関係がこれ以上悪化すればどうなるのか不安を駆りたてられます。過去の戦争で、侵略のために中国や朝鮮半島などアジアの国々で多大な犠牲者を出し、残忍な加害を与えています。自分の国の過去を恥たくはありませんが、これは同じ地球上に住む人間として、”消すことのできない事実である。”と、認識しておかなければならないと思います。 1972年、時の総理大臣、田中角栄が日中共同声明で中国と国交を回復した時に、中国の当時の首席、毛沢東が、中国国民に対し次の様な事を言って説得したそうです。 ”今まで我々は、中国を侵略し、多数の中国人を殺害した日本を許せない国だと敵視してきた。しかし実は中国の侵略をはかったのは日本の一部の軍幹部と政治家である。大部分の日本人は、我々が被害者であったように、一部の軍幹部や政治家の被害者、犠牲者である。だから我々は同じ被害者である日本国民と友好関係を持とうではないか。”  現在の靖国神社には、犠牲者だけでなく侵略者の戦争犯罪人も共に祀られています。だから、日本のリーダーによる靖国参拝は、中韓など被害を受けた国の人々に大きな動揺を与えるのです。いくら謝っても、今までの外交的な努力もすべて水の泡になるではありませんか.......

安倍首相は、有罪判決こそ受けませんでしたが、A級戦犯容疑者で後に総理大臣にまでなった岸信介のお孫さん。そうした立場から、GHQによって処刑されたA級戦犯の遺族の複雑な気持ちを蔑ろにすることはできないのでしょう。 こういう立場に置かれた人が、しかもこの様な情勢の中で日本のリーダーの立場にいることに不安を覚えます。

今年はどういうわけか投稿が少なくなってしまいました。 来年はもうちょっと頑張って投稿したいと思います。




2013年5月19日日曜日

母の死後、初めての ”母の日”に寄せて

先週は、12日の母の日、13日の母の死後100日、15日の母の誕生日があり、約3ヶ月と2週間前の母の突然の死からまだ悲しみが癒えない私の感情を感傷的に刺激するも事が続いていました。
今年の母の日は、死後初めて迎える最もブルーな母の日でしたが、母の遺影の横にカーネーションの花を供えました。そして、もし生きていたら5月15日に85歳の誕生日を迎えるところでした。当たり前といえば至極当たり前なことですが、世界で唯、一人の母を亡くした今となっては、もうしてあげられることは何もないという当たり前の現実が再び寂しさと悲しみの感情を増幅します。実家から持ってきた数枚の在りし日の母の写真を眺めながらそんな気持ちを慰めました。近年の老いてからの写真を見ると、今も生きていてどこかにいるような気がして、思わず ”今、どこにいてんの?”などといろいろ話かけてしまいます。死後もなお、癒しと慰めを与えてくれる”母親”の存在の大きさを再認識しました。

2013年4月26日金曜日

ある女流作家の摩訶不思議な体験が現代人に問いかけるもの

最近、面白い本に出会った。 佐藤愛子という大ベテラン作家の ”私の遺言”という作品。著者が70年代の半ばに手に入れた北海道の夏の別荘でポルターガイストやラップ現象のような怪奇現象(著者は心霊現象と捉えている。)に悩まされ、これがきっかけで霊媒体質になり東京の自宅や旅先のホテルでも摩訶不思議な攻撃が執拗に続いた。激しい頭痛や膝の痛みといった肉体的な苦痛にまで発展するなど深刻な状況となった。得体の知れない見えない敵に対して、巷の評判の多くの霊能者の協力を得てお祓いを試みるもなかなか治まらない悪戦苦闘ぶりを描いた著者自身の実体験に基づくノンフィクション(らしい。) 心霊やスピリチュアルといった言葉を聞いただけで ”あほらしい”と言い放つ唯脳論者の人からは、”この作者の頭はおかしい”などと一笑に付してひと蹴りされるだけだろう。

私は普段、小説などはあまり読まないのでこの作品がこの作家との初めてのご縁であるが、佐藤愛子氏は、直木賞、女流文学賞、菊池寛賞などの受賞歴があり、女流文学者会の会長などを務めた文壇の大御所である。こういう立場にある人が心霊などという超常現象を自分の実体験の如く、作品として世に出すことは、それ相当の覚悟と勇気を要したに違いないだろう。この作品の中に記された怪奇現象が本当に実体験だとしたら、”事実は小説よりも奇なり” である。夜通し発生する激しいラップ音、電灯やテレビが勝手についたり、他人が介在していることが考えられない時にガスコンロの上に取り付けられた換気扇が外され床の上に置かれていたり、倉庫に置かれていた何本かのボトルが勝手にテーブルの上に並んでいたり、電話や車のキーがソファの中にかくされていたりといった怪奇を通り越した奇想天外な不気味な現象のオンパレードは、下手なオカルト映画やホラー映画よりも迫力があり恐怖心を煽られる。

多数の有名な霊能者に相談してお祓いや除霊を試みるが、その度に、それを嘲笑うかのように、かえって、得体の知れないストーカーからの攻撃はエスカレートし、著者は、約20年近くも執念深い怪奇現象に苦しめられたそうだ。 こうした心霊現象(?)の質の悪さは、周囲の理解をなかなか得られないことである。周囲の者に相談しても、こうしたことに興味のある人や霊能者以外からはまともに相手にされない。実際、毎日昼夜を問わず執拗な怪奇現象に悩まされていても、同じ場所に他人がいる時はなにも起こらない。 その現象はさなざまな怨霊(?)が絡んでいて複雑なのだが、そのひとつにアイヌの地縛霊と著者の祖先および著者の前世との絡みがあると捉え、佐藤愛子氏は、和人に迫害されたアイヌ民族の怨念の歴史に思いを馳せ始めた。また、このことがきっかけで、宇宙には、この物質世界の他に4次元、5次元といった(いわゆる霊界など)精神世界が存在することを認識し始める。この精神世界は、意識の波動の高低によって細かい階層に分かれているらしい、ということを学び、波動の低い悪質な低級霊を寄せ付けないためには、日頃から精神修養に努め、意識の波動を高めていかなければならないという結論に達したようだ。

次から次へと高名な霊能者を訪ね、様々なお祓いを試し続けて問題の解決を謀ろうとする 著者の行動と、苦しみや困難から逃れ、お金と物と形式で厄介な問題を片付けようとする現代の多くの日本人の姿勢とをかぶせて自虐的に皮肉り、物質世界の価値観にどっぷりつかりこころの波動を低下させている私達への警告をこめたメッセージのように感じる。

この作品の世界をどう受け取るかは人それぞれだろう。スピリチュアルな世界は私も興味を惹かれるが、この作品で著者が最も訴えたい大事なことは、私も目を逸らし疎んじがちだったものなので、 自分の死後の世界の有様を想うと、自分のこころのあり様が少し不安になってしまう。









2013年3月16日土曜日

母が遺して逝ったもの

先月他界した母の後年は病気と障害との闘いだった。持ち前の忍耐力と精神力で苦しい状況も何とか切り抜けてきた。まさに人生とは闘いだということを身を持って教えてくれた。いつも病気や障害と闘って生きていた母が目に浮かぶ。 37歳頃に受けた子宮外妊娠の手術による輸血でC型肝炎に感染、後に肝硬変を患い、50代半ばで胃癌のため胃の大部分を切除、この時に受けた手術による輸血で両下肢麻痺を引き起こす難病の原因になるウィルスに感染して歩行困難になった。そして80歳を過ぎ腸閉塞と肺炎を併発、極めて危険な状況の中、手術は成功、しかし度重なる腸からの出血のため、腸の再手術、人工肛門を余儀なくされたが奇跡的に生き延びることができた。その3年後の昨年11月には、尿路感染症からの敗血症で絶食状態が続き何とか持ちこたえ、昨年末には、流動食ではあるが3度の食事が取れるようになり体力が回復してきたように思えたが、先月2日再び敗血症による高熱に襲われ、心不全をおこし、ついに力尽きてしまった。

50代半ばで難病を引き起こすウィルスに感染し、肢体不自由の身になってからは日常生活の不便さは勿論、同世代の女性が普通に楽しんでいた旅行、温泉、買物、食べ歩きなどの楽しみも奪われていた。しかし主婦という立場上、不自由な足を引きずりながら家族のために懸命に家事もこなさなければならない時期もあった。一時的に絶望感に打ちひしがれることはあったが、常に自分の病気と障害と闘い、出来るだけ人に頼らず、デーサービスなどささやかな楽しみを見つけ前向きに生きていた。そんな中にあっても頭の中はいつも自分のことよりも子どもや孫たちへの想いや心配事で一杯だった。

約3年前、肺炎を併発しながらの腸閉塞の手術後、何度も集中治療室のお世話になったが、その度に母は、恐ろしい程、苦しんでいた。心拍数が1分間に100から180位まで恐ろしく速くなっていた。臆病者の私は,見ていて本当に辛く怖かった。しかしこの時私に一つの考えが浮かんだ。”母は今、生きることは闘いだということを身を持って教えてくれている。残酷なようだが、これから厳しい社会の現実と向き合わなければならない大学生の息子が、祖母の生きるための真剣な苦闘を目の当たりにすると,何かを感じてくれるかもしれない。” 翌日早速息子を連れて集中治療室の母を見舞った。 ”お祖母ちゃんは、ただ息をするだけでもあんなに苦しんでいる。苦しんで一生懸命生きようとしている。楽に息をして普通に生きられるということだけでもありがたいことがわかるな。”という私の言葉を、息子は、それまでに見せたこともないような真剣な表情で無言のままただただ頷いて聞いていた。奇跡的な回復の後、敗血症に侵されるまでの約3年間、持ち前の勤勉さで、リハビリ、食事と生きるために懸命に前向きに頑張っていた。

80歳を過ぎての2度の開腹手術、大量の輸血、敗血症とこれでもか、これでもかと母の寿命を脅かすものと懸命に闘い、心臓も頑張って頑張りぬいたが度重なる敗血症の高熱についに心不全をおこし力尽きてしまった。

母が見せてくれた類まれな忍耐力と精神力は、このまま闇に葬り去ってしまうのは、娘としてとても忍びがたいという思いがする。母が遺した形のない遺産として多くの人に語りついでいきたいという思いに駆られている。

お母ちゃん、本当に長い闘病生活おつかれさまでした。そして最後に、たくさんの愛情をありがとう。 今は、ゆっくり安らかに休んでね。











2013年3月1日金曜日

私に行かんといてと言ったのに、逝ってしまった母

母がこの世界から去って、4週間になろうとしていますが、直後よりも今ごろになって日増しに寂しさというか喪失感に苛まれています。21年前祖母が他界した時もそのような時期がありましたが、今回の母の場合、その比ではありません。 3年間、往復4時間の道のりを週2回遠距離介護に通い、母の在命中は、”いつまでこんな状況が続くのか”と、イラだち、ついには、、弱り果てた母にまで、面と向かって、不満をこぼしてしまった親不孝な私、こんなに早く母と別れなければならないと知っていたら、もっと母とすごす時間を大切にして動画や写真など記録や思い出作りに励んだのにと、悔やまれます。 母を失った今頃になって、母と過ごした全ての時間が貴重で懐かしい思い出となり、母が生きていた頃に戻って、もう一度会ってみたいというかなわぬ望みに悩まされています。

病気のため母が亡くなる前の2週間は、全く顔を会わせておらず、息を引き取る30分前に初めて知らせを受けましたが、間に合わず最期も看取ることができなかったことが、とても心残りです。

亡くなる1ヶ月程前の今年のお正月明けのある日に見舞った時のことを思い出すと、胸を締め付けられる想いがします。 私が、少しでも母のベッドから離れようとすると、その度に、私の名前を呼び、”行かんといて!”と叫びました。(その頃は、体力的にかなり弱っていて、普通は、声も出にくかったのですが。)それまでそんなことは一度もなかったので驚き、後ろ髪を引かれる想いで部屋を出たのを思い出します。今、思うと、一人ぼっちの孤独の中で、迫り来る死の影に怯えていたのでしょうか.......結局は、その1ヶ月足らずのうちに、自らあっけなく逝ってしまったのですが.......

最後に見舞ったのは、1月18日。この日、母の病室に行き、眠っていた母の耳元で、”お母ちゃん、来たで!”と、声をかけると、すぐ、目を開き、ほんの3日前に顔を合わせたところなのに、”長いこと来なかったな."と、とぼけたことを言って迎えてくれました。この頃は自発的にいろいろな話をする体力もなかったのですが,” 葬式するんか?”と、急に突飛なことを言ったりしました。その時は全く思いもよりませんでしたが、死期が迫り、魂がこの世とあの世(3次元と4次元、5次元?)を行ったり来たりしていたのかもしれません。あの時点で母は、体は私と同じ時間と空間を共有していましたが、魂は、2週間後の未来の世界にあり、そこから私に話かけていたのかもしれないと思ったりします。約2週間後に、兄から緊急の知らせを受け、駆けつけた時には、2週間ぶりに対面した母は、既に冷たくなっていました。この2週間ぶりの無言の対面を思うと、底のない深い悲しみに沈みそうですが、2週間早く、最期の時を迎えた母の魂と会っていたと考えると、気持ちが慰められます。

それでもやはり時間を戻せるなら、亡くなる2週間前にもどり、毎日母を見舞って、ずっと母に寄り添い、そして、その時には、私が子どものように、”お母ちゃん、行かんといて!”と、叫んで最期を看取りたかった。