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2012年12月21日金曜日

現存する世界最古の企業

自民党の圧勝という結果に終わった衆議院選挙。多くの人が民主党の政治に失望した結果なんでしょうが、長年に渡って行われてきた官僚、財界癒着の自民党政治がほんの数年の期間で刷新され生まれ変わるとは思えません。特に緊張が高まっている中国、韓国、北朝鮮といった周辺諸国と更なる軋轢が生じないか不安です。民主党が掲げた脱原発はどうなるのでしょうか?マスコミは、今の日本人の政治志向は一般的に保守的になっていると言っていますが、どうなんでしょうかね.....

これに対する善し悪しはさて置き、保守的で伝統を重んじる日本人の気質によって育まれてきた世界に誇れる技というものがこの国には、多くあるようです。これを裏付けるように、日本には、創業100年以上の企業が全国に2万2219社あり、そのうち創業500年を超える企業は39社存在するそうです。お隣の中国や韓国では、伝統的に商いは卑しい者のすることと見なされていて財を成すと、子どもには学問を奨励し、他の道に進ませるので老舗が殆ど存在しないようです。

日本は世界一最多の老舗企業を有し、現存する創業200年以上の企業が3113社あり2位ドイツ1563社となっています。中でも日本の老舗企業トップは、大阪市天王寺区にある ”金剛組” という建設会社(高松コンストラクショングループ)で、創業は、な、なんと飛鳥時代の578年ということで日本のみならず世界最古の企業として世界的に認定されています。1400年に渡る歴史の中で、主に寺社仏閣建築の設計、施工や文化財建造物の修復に携わってきました。創業から1955年の法人化を挟んで2005年の経営破綻まで金剛一族による経営が存続していましたが、同年11月、高松建設の全額出資により新金剛組が設立されました。

578年、四天王寺を建立するため、聖徳太子が百済から招いた3人の宮大工の中の一人であった金剛重光によって創業されました。593年に四天王寺、603年に法隆寺を創建し、この両寺院を築いた工法は、”金剛組 組み上げ工法” として、現在にも生きているそうです。四天王寺おかかえの宮大工として、戦火などによって7度の焼失に見舞われた四天王寺の再建に歴代の金剛組が取り組みました。他にも大阪城の建設や法隆寺の改築などにも携わりまさに日本の歴史と共に歩んできた企業といえます。

金剛組の伝統的工法である”組み上げ工法”とは、木材を釘などの金物を一切使わずに組み上げていく独特の手法です。釘は一旦緩むと元に戻ることはありませんが、木材を組み合わせたものは、揺さぶってもまた元に戻っていくそうです。こうした伝統に育まれた知恵と技が地震多発国日本において現代まで数多くの貴重な文化遺産を残す源となりました。

永い歴史の中、金剛組は幾度となく時代の波に振り回され、試練と闘ってきました。金剛家は江戸時代まで、四天王寺お抱えの宮大工として、定まった収入を得ていましたが、1868年、明治元年に出された神仏分離令の余波を受けて四天王寺は寺領を失い、金剛組への禄は廃止されました。以後、他の寺社にも進出することを余儀なくされました。昭和に入っても、更に苦難の道は続きました。無類の職人気質であった37代金剛治一は、営業活動には全く興味がなく金剛組の財政は極度に困窮しました。治一はこれを先祖に詫び代々の墓前で自殺しました。妻のよしえが歴代初の女性棟梁として38代を継ぎ、東西に奔走して難を逃れました。

第二次世界大戦中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事には恵まれましたが、寺院関係の仕事は皆無になりました。それに加え、政府による会社統廃合策のために他社に併合される危機にも見舞われましたが、軍事用の木箱を製造するなどして辛うじて社の存続を守りました。

戦後に入り1955年には、39代金剛利隆が経営の近代化を図り、株式会社 金剛組が誕生しました。以後、社寺建築だけでなく、広く一般建築にまで業務を拡大しました。マンションやオフィスビルといった現代建築にも携わりましたが、業界の大手と同じ土俵での価格競争に巻き込まれた結果、経営危機に見舞われ、2005年、高松建設によって救済されました。これにより金剛家一族は経営の表舞 台から撤退せざるをえなくなりましたが、現在も39代金剛利隆氏が相談役として残っておられます。




2012年12月2日日曜日

ムサカリ絵馬

今日のテーマに関しては、数年前 夕刊のコラムか何かで初めて知りました。、山形県に明治の初め頃から現在にかけて伝わる風習で、”ムサカリ”とは、土地の方言で”結婚”を意味する言葉だそうです。何らかの事情で若くして亡くなった息子や娘のために、彼らが幻の配偶者と結婚式を挙げている情景を想像して描かせた絵馬をお寺に奉納します。その絵馬を”ムサカリ絵馬”と呼びます。山形の村山地区の社寺に集中して見られ、天童市の若松寺や山形市郊外の立石寺がよく知られているそうです。近年の”ムサカリ絵馬”は写真を合成したものが多く、男女が洋装で教会式の結婚式の風景のものまで登場しているとか。いずれにせよ、親より先に旅立った薄幸な子どもに対して”せめてあの世で良い伴侶に恵まれ、幸せになって欲しい”という切なる親の願いと”我が子の晴れ姿を見たかった”というかなわぬ望みとが重なり、結婚式というおめでたい場面なのに、悲しさと切なさが伝わってくる不思議な絵馬です。

岩手県遠野市では、これと似た”供養絵額”というものを寺院に納める習慣があります。これは亡くなった人があの世で送っているであろう平和な日常生活を想像して大画面に描いたもので、江戸時代に始まり現代まで続いています。 19世紀のアメリカでも”モーニングピクチャー”という亡くなった子を中心とする家族のポートレートが盛んに描かれていたそうです。こちらは、何十年後に描かれたものでも子どもの姿は亡くなった時のままです。

”ムサカリ絵馬”のような”死後結婚”あるいは、”冥婚”の習俗は中国を始めとする東アジアと東南アジアに古くから見られ、人間の女性に見立てた”花嫁人形”を遺体と共に柩に納めるという穏やかなものから、結婚相手として選ばれた人間が殺害され夫婦として共に埋葬されるという非常に過激なものまであるそうです。中国の山東省では、いまだに、誘拐された女性が冥婚のための花嫁として売買され、殉葬させられるという悲劇が存続しています。


ムサカリ絵馬 (1)

ムサカリ絵馬 (2)