著作権について

このブログでは、著作権保護の対象となっていない画像のみを掲載しています(著作権保護の対象となっている可能性のある画像についてはリンクのみを表示)。著作権保護については細心の注意を払っておりますが、万一、お気づきの点がありましたらお知らせください。







2012年12月21日金曜日

現存する世界最古の企業

自民党の圧勝という結果に終わった衆議院選挙。多くの人が民主党の政治に失望した結果なんでしょうが、長年に渡って行われてきた官僚、財界癒着の自民党政治がほんの数年の期間で刷新され生まれ変わるとは思えません。特に緊張が高まっている中国、韓国、北朝鮮といった周辺諸国と更なる軋轢が生じないか不安です。民主党が掲げた脱原発はどうなるのでしょうか?マスコミは、今の日本人の政治志向は一般的に保守的になっていると言っていますが、どうなんでしょうかね.....

これに対する善し悪しはさて置き、保守的で伝統を重んじる日本人の気質によって育まれてきた世界に誇れる技というものがこの国には、多くあるようです。これを裏付けるように、日本には、創業100年以上の企業が全国に2万2219社あり、そのうち創業500年を超える企業は39社存在するそうです。お隣の中国や韓国では、伝統的に商いは卑しい者のすることと見なされていて財を成すと、子どもには学問を奨励し、他の道に進ませるので老舗が殆ど存在しないようです。

日本は世界一最多の老舗企業を有し、現存する創業200年以上の企業が3113社あり2位ドイツ1563社となっています。中でも日本の老舗企業トップは、大阪市天王寺区にある ”金剛組” という建設会社(高松コンストラクショングループ)で、創業は、な、なんと飛鳥時代の578年ということで日本のみならず世界最古の企業として世界的に認定されています。1400年に渡る歴史の中で、主に寺社仏閣建築の設計、施工や文化財建造物の修復に携わってきました。創業から1955年の法人化を挟んで2005年の経営破綻まで金剛一族による経営が存続していましたが、同年11月、高松建設の全額出資により新金剛組が設立されました。

578年、四天王寺を建立するため、聖徳太子が百済から招いた3人の宮大工の中の一人であった金剛重光によって創業されました。593年に四天王寺、603年に法隆寺を創建し、この両寺院を築いた工法は、”金剛組 組み上げ工法” として、現在にも生きているそうです。四天王寺おかかえの宮大工として、戦火などによって7度の焼失に見舞われた四天王寺の再建に歴代の金剛組が取り組みました。他にも大阪城の建設や法隆寺の改築などにも携わりまさに日本の歴史と共に歩んできた企業といえます。

金剛組の伝統的工法である”組み上げ工法”とは、木材を釘などの金物を一切使わずに組み上げていく独特の手法です。釘は一旦緩むと元に戻ることはありませんが、木材を組み合わせたものは、揺さぶってもまた元に戻っていくそうです。こうした伝統に育まれた知恵と技が地震多発国日本において現代まで数多くの貴重な文化遺産を残す源となりました。

永い歴史の中、金剛組は幾度となく時代の波に振り回され、試練と闘ってきました。金剛家は江戸時代まで、四天王寺お抱えの宮大工として、定まった収入を得ていましたが、1868年、明治元年に出された神仏分離令の余波を受けて四天王寺は寺領を失い、金剛組への禄は廃止されました。以後、他の寺社にも進出することを余儀なくされました。昭和に入っても、更に苦難の道は続きました。無類の職人気質であった37代金剛治一は、営業活動には全く興味がなく金剛組の財政は極度に困窮しました。治一はこれを先祖に詫び代々の墓前で自殺しました。妻のよしえが歴代初の女性棟梁として38代を継ぎ、東西に奔走して難を逃れました。

第二次世界大戦中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事には恵まれましたが、寺院関係の仕事は皆無になりました。それに加え、政府による会社統廃合策のために他社に併合される危機にも見舞われましたが、軍事用の木箱を製造するなどして辛うじて社の存続を守りました。

戦後に入り1955年には、39代金剛利隆が経営の近代化を図り、株式会社 金剛組が誕生しました。以後、社寺建築だけでなく、広く一般建築にまで業務を拡大しました。マンションやオフィスビルといった現代建築にも携わりましたが、業界の大手と同じ土俵での価格競争に巻き込まれた結果、経営危機に見舞われ、2005年、高松建設によって救済されました。これにより金剛家一族は経営の表舞 台から撤退せざるをえなくなりましたが、現在も39代金剛利隆氏が相談役として残っておられます。




2012年12月2日日曜日

ムサカリ絵馬

今日のテーマに関しては、数年前 夕刊のコラムか何かで初めて知りました。、山形県に明治の初め頃から現在にかけて伝わる風習で、”ムサカリ”とは、土地の方言で”結婚”を意味する言葉だそうです。何らかの事情で若くして亡くなった息子や娘のために、彼らが幻の配偶者と結婚式を挙げている情景を想像して描かせた絵馬をお寺に奉納します。その絵馬を”ムサカリ絵馬”と呼びます。山形の村山地区の社寺に集中して見られ、天童市の若松寺や山形市郊外の立石寺がよく知られているそうです。近年の”ムサカリ絵馬”は写真を合成したものが多く、男女が洋装で教会式の結婚式の風景のものまで登場しているとか。いずれにせよ、親より先に旅立った薄幸な子どもに対して”せめてあの世で良い伴侶に恵まれ、幸せになって欲しい”という切なる親の願いと”我が子の晴れ姿を見たかった”というかなわぬ望みとが重なり、結婚式というおめでたい場面なのに、悲しさと切なさが伝わってくる不思議な絵馬です。

岩手県遠野市では、これと似た”供養絵額”というものを寺院に納める習慣があります。これは亡くなった人があの世で送っているであろう平和な日常生活を想像して大画面に描いたもので、江戸時代に始まり現代まで続いています。 19世紀のアメリカでも”モーニングピクチャー”という亡くなった子を中心とする家族のポートレートが盛んに描かれていたそうです。こちらは、何十年後に描かれたものでも子どもの姿は亡くなった時のままです。

”ムサカリ絵馬”のような”死後結婚”あるいは、”冥婚”の習俗は中国を始めとする東アジアと東南アジアに古くから見られ、人間の女性に見立てた”花嫁人形”を遺体と共に柩に納めるという穏やかなものから、結婚相手として選ばれた人間が殺害され夫婦として共に埋葬されるという非常に過激なものまであるそうです。中国の山東省では、いまだに、誘拐された女性が冥婚のための花嫁として売買され、殉葬させられるという悲劇が存続しています。


ムサカリ絵馬 (1)

ムサカリ絵馬 (2)



2012年11月22日木曜日

隠れ念仏と隠し念仏ーキリスト教だけではなかった日本の宗教弾圧

 


近所のスーパーで買い物をしていると、このところ連日クリスマス関連の音楽が鳴り響き、”今年も残り少くなったな”と思い慌ただしい気分になる。クリスマスといえば、キリスト教徒の祭りであることは言わずもがなである。私は単純なので、アメリカ人などの西洋人は、一様に、日本人の年賀状に相当するものがクリスマスカードだと思っていた。もしあるアメリカ人がユダヤ教徒だったり、回教徒だったりしたら、クリスマスカードを他人から贈られると激怒するらしいので、相手の宗教を確認してからカードを贈らなければならないという。日本人は宗教には寛容であるとよく言われるし、これは、信仰に無関心であることの裏返しであるとも言われる。形式だけの仏教徒が多数を占めるという土壌の中では熱心な信仰を持っている人は、疎ましがられ、宗教そのものを毛嫌いする人も少なくない。先に”形式だけの仏教徒が多数を占める”と書いたが、多くの日本の仏教徒は、何らかの救いを求めて熱心に信仰しているのではなく、葬儀や年忌供養などで寺や僧侶と関わる程度なのではないだろうか。

にもかかわらずかってこの国には、少なくとも2つの異なった熱心な信仰グループが存在した。一つは、禁制後も潜伏し弾圧と迫害の中で信仰を200年以上も守り続けた”隠れキリシタン”と呼ばれた人々、もう一つは、講と呼ばれるネットワークで身分の違いを超えて人々が結びつき、全国規模でそれぞれの講が地下で接触していたと言われる浄土真宗門徒である。この集団は、強力な組織で人々が団結し、一向一揆や石山合戦で支配者を倒したり苦しめた。江戸幕府は西洋人による日本の征服(植民地化)を恐れて、檀家制度(寺請制度)によって寺と家を強制的に結びつけ、キリスト教徒を徹底的に撲滅しようとした。日本人に圧倒的に仏教徒が多いのもこの辺に起因している。だが、それが権力から押し付けられたに等しいものだったので、人々の魂の救済だとか日本人のこころを揺さぶる物にはならなかった。浄土真宗に対してもキリスト教のような全国的な禁制こそしかれなかったが、檀家制度によって、門徒を寺に管理させ、自発的な村の講の念仏活動を禁じた。 九州の一部の地方では、浄土真宗の信仰が全面的に禁止され、東北などでは、浄土真宗系のある念仏信仰が禁止され両地域ともに厳しい弾圧と迫害が300年以上も継続されていた。九州の隠れ信者は、権力から隠れ、東北の隠れ信者はそれに加えて、浄土真宗本山からも隠れていたという。前者は、”隠れ念仏”、 後者は、”隠し念仏”と呼ばれていた。今日は、それぞれの地元以外ではそれほど知られていないこの”隠れ念仏”と”隠し念仏”を取り上げる。 日本人は、本来、非常に信仰心の篤いこころを持っていたが、長年そうしたものが、骨抜きにされていたのだということを感じる。



隠れ念仏


隠れ念仏とは


九州南部の鹿児島、熊本、および宮崎の一部の地方(旧薩摩藩、旧人吉藩)では、近世の300年あまりの間、浄土真宗が禁制になっており、幕藩権力から隠れてその信仰を守り続けた集団で、真宗禁制の弾圧の中、密かに、本山である京都の本願寺とのつながりを保ち、命がけで、多額の志納金を送ったりしていた。


なぜこの地域で真宗が弾圧されたのか


親鸞、蓮如が広めた浄土真宗の念仏の教えは、念仏によって集団を組む門徒たちが、一揆を起こして既製の権力を倒してしまうという中世ー戦国時代に北陸で盛んだった一向一揆を介して、各地の為政者に伝わっていた。当然、権力者は、真宗(一向宗)門徒に対して”恐ろしい”というイメージを抱き、警戒した。とりわけ薩摩藩の真宗門徒は熱心で、彼らから本願寺へ大量の物資が布施として送られていた。ただでさえ苦しい薩摩藩の財政を更に圧迫するのを恐れて禁止したという説もある。薩摩藩では、慶長2年(1557年)、十七代藩主、島津義弘によって書かれた”二十五ヵ条の置き文”において初めて一向宗(真宗)の禁止が公示された。

一方隣の人吉藩では、薩摩藩より早く、弘治元年(1555)、十七代藩主、相良晴広によって出された式目の中で、暗に加賀の一向一揆を理由に真宗禁制の方針が表明された。 相良氏の内訌に乗じて、人吉城に攻め入った北原氏が一向宗伝道の根拠寺である清明寺と関係していたためという説がある。  以降、両藩において300年にわたる禁制が続いた。


どのように信仰したのか


浄土真宗は、蓮如いらい、”講”と呼ばれる組織のネットワークを持っていたが、隠れ念仏の信仰が300年間、地下に潜り続けられた背景にはこのネットワークによるところが大きい。講は ”番役”というリーダーを中心に身分の区別なく組織され、”取次役”を通じて本山の本願寺と繋がっていた。信者たちは、藩の役人に発覚することを恐れて、嵐や雨など悪天候の日を選んで、山中の”ガマ”と呼ばれる暗い洞穴に仏具を隠したり、集って、法座を開いた。戦後、このような洞穴は、”念仏洞”と呼ばれるようになったが、禁制時は、それぞれの講ごとに、密かに念仏洞が設けられていた。薩摩の隠れ念仏の信者達が、真宗が解禁されていた飫肥藩、熊本藩の水俣、高鍋藩などの真宗の寺に薩摩から藩境を超えて度々、”抜参り”をしていたことが記録されている。熊本藩との藩境付近のある村からは、多くの信者たちが、熊本藩水俣の真宗の寺に忍んで行った。その寺の住職や門徒たちは、命がけで監視の目を逃れてやって来る信者たちを歓迎し、寺の本堂の床下に”薩摩部屋”と呼ばれる特別な部屋が設けられ、薩摩の役人が不意に飛び込んでも、発見されないようになっていた。

”隠れキリシタン”が”マリア観音”などの信仰の偽装を行っていたように、隠れ念仏も様々な創意工夫を凝らして自らの信仰を偽装した。傘の形の桐材の容器に親鸞の御影の掛け軸を収めた”傘仏”、まな板に似せた蓋つきの薄い木箱に本尊の掛け軸を収めた”まな板仏”、見かけは箪笥だが扉を開けると仏壇になっているという”隠し仏壇”などが考案された。


拷問と死罪 と仏具の焼却ー逃散


信者の疑いのある者は、藩の役人に捕らえられて自白を強制された。白状するまで続けられたという役人の拷問は、水責め、火責め、水牢、木馬など情け容赦なく残虐を極めたという。拷問の末、白状すれば禅宗に改宗を命じられ、改宗を拒めば処刑された。 武士の場合は、改宗することも許されず、切腹、もしくは、家禄没収のうえ、百姓に落とされ追放となった。 薩摩藩では、”石抱きの拷問”というのも行われ、真宗門徒の疑いのある男子を割れ木の上に正座させて、30キロの平たい石を膝の上に乗せ1枚、2枚、3枚と積み重ねた。5枚になって石の高さがあごの下に及ぶと、皮肉破れ血が流れ骨は砕け、絶命することもあった。


”安楽寺隠れ念仏保存会”によって作詞された”隠れ念仏音頭”の中に”血吹き涙の300年”、”死罪、拷問くりかえす”、”嵐の中のお念仏”という歌詞があり、300年にわたる厳しい弾圧の中で命がけで信仰を守り生き抜いた人々の魂を伝えている。

人吉藩では、地域一帯の信者の家から真宗系の仏像や仏具、仏壇などを探し出してきては、特定の場所で焼却した。その跡地は、”仏像仏具焼却地”として残されており、地元では、”牛や馬を引いて歩いていると、そこにさしかかると足を止めて動かなくなる。”と、長年言い伝えられているそうである。(仏像仏具を焼いた跡だから牛馬も通るのを嫌がる。)


こうした弾圧の中で、九州の隠れ念仏は、北陸の真宗(一向宗)門徒のように一揆という形での抵抗ではなく、土地を捨てて、念仏信仰の自由が許されている隣接諸藩に集団で逃げる”逃散”という形で抵抗した。村ごと逃散するという本格的な集団逃散も行われ、寛政十年(1798)には、2800人の大群衆が、薩摩藩領から隣の飫肥藩領に逃散するという事件が起こった。飫肥藩では、”逃散奉行”と呼ばれる奉行職を設けて逃亡農民に対応した。( 労働力不足に悩む飫肥藩が密かに関わっていたといわれる。)


カヤカベ(カヤカベ教と名乗り現在も信者が存在する)


”カヤカベ”とは、隠れ念仏から派生した一派で、彼らは表面的には神道の信者を装い、本山との関係を絶ち、毎年、霧島神宮への参拝を行っている。しかしその信仰の実態は、親鸞を開祖とする浄土真宗である。信者の家には、神棚があり、それを拝むが、その神棚の壁の向こうには仏像が隠されていたりする。彼らは柏手を打って神棚を拝んでいるふりをして、本当は、隠し仏のほうを拝んでいる。神棚の下の板壁がカヤの木でできた引き戸になっており、一見ただの板張りの壁だが、実は、その奥が隠し仏間になっていることから”カヤカベ”と呼ばれる。






隠し念仏(現在もその信仰が存続している)


隠し念仏は、種々の秘密主義を持つ念仏信仰、民間信仰であるが、その中でも江戸時代を中心に東北地方に広がっていた浄土真宗系の隠し念仏の集団がよく知られているので、ここではそれを取り上げる。東北の隠し念仏の信者たちは、幕藩権力だけでなく、浄土真宗の本山からも異端と見なされたため両方に対して、自らの信仰を隠さざるを得なかった。岩手県を中心として北は青森県のあたりまで、南は、福島県の一部に及び、独特の講という組織で広がっていた。一部の地域では現在もその信仰が存続しており、今でも”信仰を隠し”続けているともいわれている。

基本的には真宗の念仏の信仰であり、本尊として阿弥陀如来像を拝み、親鸞や蓮如の大きな影響を受けている点では、一般の浄土真宗とほとんど変わらない。ただし根本的に違うのはその信仰を表に出さず、ひた隠しにする点である。親鸞や蓮如に起源を求めるものや、京都の鍵屋の流れをくむものなどがあるが、真宗の一派を起源として、その教えの上に東北地方に古くから存在していた土俗的な信仰と、真言密教の儀式などが重なり合って、独特の信仰スタイルになっている。多くの信者は、表向きには曹洞宗などの他の教団の寺の檀家になり、葬式や法事はその寺で行った。表向きに行う葬儀とは別に、隠し念仏の信者たちや講の人が全員集まり、”念仏申し”と呼ばれる儀式も行うといった、完全に二重構造の信仰を持っていた。信者は、既存の寺の教えを表法と呼び、隠し念仏の教えを御内法と呼んでいた。

職業的僧侶や寺院というものは全くなく、徹底して在家の信仰という点にこの信仰の特徴がある。儀式の時にリーダーを務める”善知識”と呼ばれる人も普段は別の仕事を持っており、そのことで報酬を得たり生業にはしない。また、”オモトズケ”や”オトリアゲ”と呼ばれるキリスト教的な儀式がある。子どもが生まれるとすぐに”オモトズケ”という儀式を行い、その子が7歳になると今度は、”オトリアゲ”という儀式を行う。カトリックの幼児洗礼に似ている。

江戸時代、キリスト教禁制を徹底させるために檀家制度が作られ、それは封建制度を支える一つの大きな柱にもなっていた。隠し念仏は、完全に在家の信仰であってどの寺にも属さない。加えて潜伏して活動している信者の信仰の儀式がキリスト教的であったり、真言密教的であったりと、政治権力にとって、当然、不気味であり脅威に感じられただけでなく、浄土真宗の寺院からも許し難い異端と見なされた。仙台藩や盛岡藩では、真宗僧侶の提訴をいれて、隠し念仏の信者に対して、しばしば弾圧が行われた。そういう状況の中、信者たちはさらに深く地下に潜行するようになり、表面的には、禅宗などの他の宗派の寺の檀家になるという形をとって、自分たちの本当の信仰はこころの中に秘め、隠し続けた。信者たちは、土蔵などで密かに集まり儀式を行った。

信者たちが取り締まりや弾圧を受ける度に、皮肉にも秘密結社的な色彩をより強めていき、その秘技性が憶測を生んで、更に異端視されたり、弾圧されることになった。 明治時代になって信教の自由が保障された後も、更に昭和初期でさえも警察がその存在を邪教扱いして不当介入したこともある。マスコミの偏見なども手伝って、深夜に男女が集って、謀略を練っているとか、いかがわしいことをしている宗派だと見られるなど様々な誤解を受け続けた。マスコミなどへの不信感から、今もなお一切を秘密にしている隠し念仏のグループもあり、全体的にも、排他的秘密主義のため、その儀式の全貌は、未だに明らかにされていない。現在も多くの信者達は”口外してはならない”という戒律を守り続け、自分たちの信仰を進んで公にしようとはしない。

東北の隠し念仏について関係者に取材された五木寛之氏が自著の中で、再三述べられているように、この信仰集団は、”良俗を乱す”などと、世間からあらぬ誤解を受け続けたが、決してそのような怪しい宗教ではない。自らの信仰を世間から隠し続けることによって、仲間同士の絆を深め連帯感を強めたといえる。東北という地方は、昔から大量の餓死者を出すほどの凶作に繰り返し苦しめられ、自然環境も厳しい土地柄なので人々の相互扶助の精神、連帯意識が不可欠である。この排他的な信仰が、厳しい冬を生き延びるために必要な人々の仲間意識をより強くする役割を果たしていたのではないか。職業的僧侶も存在せず、寺院も持たず布施もしないという独特の信仰スタイルは、これからの日本人の信仰のあり方について一つの提案を示しているかもしれないと思う。
  


南九州は、昔から身分差別が厳しく、東北は地主と小作との経済的な格差が激しく、共に決して豊かな地方ではなかった。だからこそ人々にとって念仏の信仰が心の支えになっていた。講という組織の中では武士も商人も農民も平等であったという。厳しい弾圧の中で密かに、現世の世界とは別な次元での世界をこころの中に持ち、同じ精神世界を共有する仲間たちと強い絆で結ばれていた。貧しさの中で念仏を唱える一方で、お互い助け合い支え合っていたのだろう。

核家族化が進み高齢者の一人暮らしが増え、都市化の中の無縁社会と相まって、孤独死、孤立死などが問題になっている。孤独なのは、高齢者だけではない。私たちの気づかないところで、毎日孤独と闘っている人は無数にいるはずだ。こうした孤独な人々を精神的に支え合う将来のネットワーク作りが必要である。人の弱みにつけ込む悪徳宗教団体は困るが、これからは、こうした人々を繋ぎ、強力にバックアップする真摯な宗教的リーダーの活躍が期待される時代ではないだろうか。


参考  「隠れ念仏と隠し念仏」 五木寛之
























2012年10月31日水曜日

山窩(サンカ)と家船(エブネ)




戦争を体験した私の両親の子供時代や青春時代、更にご先祖の時代には、今の時代に比べて、自由がかなり制限されていたという。なるほど今の私たちは、江戸時代や軍国主義の時代になかった”言論の自由”というものを享受している。しかし私たちは、ご先祖様よりもはたして本当に自由に生きることが可能なのだろうか。自由にものを考え、感じることができる環境にあるのだろうか。

現代に生きる私たちの頭の中は、少なくとも ”お金と物” ”教育” ”メディア” ”組織”などに
縛られて、江戸時代のご先祖様よりもある点では、不自由な世界に閉じ込められているのかもしれない。人よりも物質的に恵まれた生活をするために、お金と物に振り回され、学校や親は、子どもたちにそのためには、一生懸命頑張って、”良い学校に行き、良い会社に勤めなさい”と教える。メディアは、”勝ち組、負け組”など画一的な価値観を押し付け、 私たちの頭の中は、洗脳された価値観で一杯になり本来の自分を見失い、自分の中に秘めている独自の感性や個性を埋もれさせてしまう。

更に、会社などの組織の中の複雑な人間関係や世間体などにがんじがらめに縛られていて無意識に本来の自分ではない”誰か”を 演じていたりする。抑圧された自我が悲鳴をあげ続けているのに頑張り続けた挙句、うつだとか閉じこもりといった心の病に蝕まれてしまう人々が増加の一途をたどっている。

今回取り上げる、かってこの国に存在(現在もごく少数だが実在するらしい。)した、”山窩(さんか)”とか”家船(えぶね)”と呼ばれた漂白民は、現代の物質社会、管理社会の中で閉塞感をいだいている人々の間で話題になり、様々なアプローチや研究がなされているようだ。

 ”今回これらの漂白民を取り上げる”と偉そうなことを言っても、最初に取り上げる”山窩”については私自身Wikipediaなどの情報を読み取っても頭の中は、かなり漠然としていて、いまいち、実態をつかみきれず、謎の部分が多い存在だ。筆者が充分理解していないものを人様に読ませること程失礼なことはないが、何卒、勉強不足な点は、ご勘弁頂きたい。


山窩 (サンカ)


山窩(サンカ)とは


山窩(サンカ)とは、日本の山間部を生活の基盤として、夏期は、川魚漁、冬期は、竹細工などを主な生業としながら、少数集団で 山野を渡り歩く漂白民のことらしいが、その生活実態は、まだ、充分に把握されていないという。”散家”、”山稼”とも書かれ、ポン、ノアイ、オゲ、ヤマモンなどとも呼ばれたそうだ。居住地は、北海道と東北を除く日本全域にわたり、テントを持って漂白する”セブリ”と一般社会に定住している”イツキ”に分けられるらしいが古くは、定住せず、また、親分を持たず誰からも支配や干渉をされない独立、自由の生活を好み、更に農耕に従事しないことを誇りにさえしていたという。


サンカの生業と生活

生業の主なものは、竹細工で、箕、ざる、ささら、茶筅、箒、籠などを作って、人里に出て売ったり、米などと交換したりした。 他に俵ころばし、小法師、四つ竹、うずめ、さかき、てるつく、獅子、たまい、猿舞、猿女などの遊芸や、山守(やもり)、池番(いけす)、川番人(かもり)、田畑番人(のもり)、係船の番人(うきす)など番小屋にあたる仕事も行っていたという。これらの多くが中世、近世の賤民の人々が従事していた仕事と重なるのが興味深いと思う。

テントを持って移動生活を行う”サンカ”は、”セブリ”と呼ばれ、1ヶ所に数日、短ければ1夜で食器類を携えて他の場所に移動する。テントは、山裾や河原などの水の便の良いところに南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人)と呼ぶ自在鉤を下げていた。テント住まいの他、洞穴を利用した簡単な小屋掛けをするものもあり、何を生業とするかで住居の形態も違っていたようだ。麦やうどんを主食として、川魚、小鳥、山菜などを食べた。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯を作り入浴する方法や、地面を焼いて暖を取る方法など、まるで縄文人の生活を彷彿とさせるような古い習俗も伝えられている。 


起源


縄文人の末裔説、渡来人説、落人説、中世難民説、近世難民説など様々な説があり一定していない。縄文人の末裔説によれば、大和朝廷によって征服された先住民族であり、原日本人である。農耕をし同化することを拒んだ先住民族の中のいくつかの集団は、平地を追われて山に立てこもり、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らし続けた結果、”サンカ”に至ったということになる。しかし、沖浦和光 は、サンカは比較的新しく、江戸時代に度重なる飢饉で山野に逃れた人々を祖とするという”近世末期起源説”を提起している。

サンカの神秘性

”サンカ’に関しては謎の部分が多く、ある人々の説によれば、 かれらの仲間うちのコミュニケーションは、一般人とは違った言葉と文字を用いて外部の者に知られず連絡を密に取ることができる、”シノガラ”と呼ばれる全国のサンカを支配する秘密結社のような組織を持っている、あるいは、互助組織による経済的な保証システムを持っているというものがある。このようなことによって”サンカ”は、非常に謎めいた神秘的な存在というイメージを拡大しているが、サンカの実態が失われてしまった現代では、事実かどうかの検証が困難になっているそうだ。








家船(えぶね)



家船(えぶね)とは、北九州の西海岸から五島列島、壱岐、対馬、瀬戸内海などに分布していた一群の海上漂白漁民の集団で、方言で”エンブ”とも言われていたらしい。(瀬戸内海では”ノウジ”あるいは”シャア”) 古代海部の系統を引く水軍の末裔とも言われているが詳しいことは、不明である。

本拠地を中心として周辺海域を移動しながら盆と正月を除く1年のほとんどを漂海して過ごす。陸に一片の土地も家も持たず(墓を持つ者はいるらしい。)漁業や行商を生業として、家族全員が生活の一切をまかなう”エブネ”と呼ばれる船の上で暮らしていた。一般の漁民と異なり、女性も船に乗り込み共に働き、頭上運搬で行商するのは女性の役目になっていた。まだ明確にされていないが、女性の抜歯、特定の言葉を忌み嫌うなどいろいろ変わった風習や独特の信仰を持っていたという。漁業権を持たないので、漁業権が設定されていない沖合で一本釣りや小網漁をしていた。周辺の村の者から賤視され、通婚しない、共に食事をしない、祭りの宮座に入れないなどの差別を受けていた。

明治維新の近代化の到来と共に、納税の義務化、徴兵制、義務教育の徹底などの一般庶民の管理化、文化的、物質的な生活の普及によって、漂白生活は困難になり、定住生活を余儀なくされ、現在では消滅したと言われているが、瀬戸内海では今でも家船的な漁業が残っているという。








”サンカ ”や”エブネ”と呼ばれた漂白民の起源はまだ明確にされていないが、いずれにせよ少なくとも近代化の波が彼らに押し寄せてくるまで、この日本列島に縄文人のようなライフスタイルを持つ人々が存在していたというのは凄いことだと思う。ある見方をすれば、近代的な工業化によって、国民の大多数を占めていた農民が激減するまでは、権力者のスタイルは変わっても、庶民にとっては、弥生時代の延長が続いていたといえるかもしれない。 先に述べた漂白民の生業は、中世から江戸時代にかけて賤視された人々の仕事と重なる部分が大きく、私の個人的な考えでは、農耕をして税を治めるという大和朝廷が強要する良民(弥生人的農民)になることを拒んだ人々が、そういう縄文人的ライフスタイルを選び、それらの人々が携わった仕事が賤視されるようになったのではないかと思う。もちろん古代から近代に至るまで漂白民を代々世襲している家系なんて滅多にあるものではない。しかしこうした縄文人的な漂白民のライフスタイルは、様々な事情で社会から逃れてきた人々にも、永い時を経て受け継がれてきたのではないだろうか。


現代の物質文明の恩恵を受け、冷暖房設備の付いた住居に暮らしている私達が、ホームレスな漂白民的生活に馴染むことは、たやすいものではない。 私達が物質文明の進歩によって、便利さ、快適さといった恩恵を随分受けていることには疑いの余地はない。しかしそれによって物とお金の奴隷になり家の中に収まりきれない程の様々な物を手に入れ、必然的に大量のゴミを出している。また物質的に不自由のない文明人として暮らすためにある程度の収入を得なければならないが、そのために会社などの管理化された組織の中で本来の自分を抑圧し自由と個性をある程度犠牲にせざるをえない。

近年、年間の自殺者が3万人を超す(14年連続)という発展途上国ではトップクラスの自殺大国になり深刻な社会問題となっている。その背景は、それぞれに複雑であり一括りにはできないが、失業、多重債務、生活苦、仕事のストレスや人間関係の悩みといった現代の資本主義社会の歪み、物質万能社会、管理社会がもたらす負の側面も影響していると思う。

必要最低限の物だけを所持して物にも土地にも組織にも縛られない”サンカ”、”エブネ”といった縄文人的なライフスタイルを持つ人々は、現代人の目には、おおらかな自由人に映るのだろうか。














2012年10月16日火曜日

マタギ

宮大工、伝統的な工芸、芸能など日本の伝統を継承していかねばならない世界では、若い後継者を確保し育成していくことが、厳しい状況となっている。例えば、伝統的な工芸の世界で一人前になるためには、少なくとも10年の修行が必要だといわれる。戦前までは、小学校を終えるとすぐに伝統工芸の師匠の下に弟子入りして修行を始めるのが普通だったそうだ。 戦後の高度経済成長によって、国民の所得水準が飛躍的に伸び豊かになると同時に、教育への関心が高まり、ほとんどの子供が高校に進学するようになった。また、工業化を果たした日本には、それほど修行しなくても、見習いの頃から給与がもらえる職業がたくさん生まれ、旧来の徒弟制度の下で、弟子に満足な給与もし払えない伝統工芸の世界に進む若者が激減してしまったのも時代の避けがたい必然.だった。そうした後継者不足という危機的な状況に追い込まれている伝統的な仕事の一つに”マタギ”という職業がある。

”マタギ”とは、もともと主に東北地方の山間部で伝統的な方法を用いて行う集団猟を生業としている狩猟者集団を指す言葉だそうだ。 山の神に対する信仰が厚く、狩猟で山に入る時は、里の言葉とは違った特別な”山言葉”を使い、狩猟期におけるさまざまな禁忌、獲物の分配方法や、山の神への儀礼などが伝承されている。狩猟対象は熊を中心にシカ、イノシシなどで、冬眠中の熊を狙う独特の猟を考案した。猟は”タテ”と呼ばれる手槍を主に、犬を使い、罠猟や、穴ごもりの中のものをおびき出す方法、大規模な共同の狩り(巻狩り)などの方法で行われた。巻狩りの場合、”シカ”と呼ばれる親方のもと、山小屋に泊まり、集団で生活を共にした。獲物を追い込む”セイゴ”、合図を送る”ムカイマッテ”、銃を撃つ”ブッパ”などで構成され、”シカリ”の指図に従い、それぞれが沢、山の中腹、尾根などの各持ち場につき、谷を巡って、獲物を追い出し、尾根で仕留めるそうだ。狩猟期は、冬と春で、毛皮や編笠を被って何日にもわたって山に入り、夏と秋は、山菜やきのこを採ったり、熊胆を作ったり薬草から薬を抽出したりするそうだ。

多くのマタギは、山への敬意を持って狩猟を行った。自然への畏敬の念と感謝の心を持ち、無責任な乱獲は行わなかったので、環境と生態系は、破壊されず、保護されていた。

厳しい雪山の自然の中で、命懸けで猟を行ってきたマタギは、神に対する厚い信仰心と独特の精神世界をもっている。”山は山の神が支配しており、熊などの動物は、神様からの授かりもの”という信念のもと、数多くの禁忌、独特の風習、慣例、儀礼行事(矢先祝い、矢開き、毛祝、血祭り、血祓いなど)がある。 ちなみにマタギの信仰する山の神様は醜女であるとされ、山に女性を入れることは神の怒りに触れるため、女人禁制の掟がある。

マタギが狩猟で得た毛皮や熊胆は高値で取引され、新潟や秋田には、かって、マタギだけで構成されている村が多数存在したらしいが、近年、人口の急激な増加に伴い、山野の野獣が激減したことにより、狩猟で生計を立てることが難しくなっているらしい。加えて、命懸けの厳しい仕事であることから後継者不足の問題もあり、現在では職業としてのマタギは、殆ど行われておらず、伝統の継承が危ぶまれている。(一部引用ー”13歳のハローワーク” 村上龍)

自然への感謝と畏敬の念というマタギの精神世界と信仰心は、アイヌのそれと共通するものがある。マタギが猟で使っている山言葉には、アイヌ語由来と思われるものが多くあるという。こうしたことを考えると彼らは、古代、大和朝廷によって征服され滅ぼされたという ”エミシ”という狩猟民の末裔なのではないかというロマンに駆られてしまう。(”エミシ”と”アイヌ”の継りについては不明であるが、エミシの残存が中世以降に”エゾ”(アイヌ)と呼ばれるようになったのではないかという説がある。)

最近では、競争社会、組織や人間関係のしがらみから逃れて、脱サラしてまであえてこの危険な仕事に転職するユニークな人もいるらしい。



マタギの掟、山言葉については、こちら





..



music


2012年10月9日火曜日

鬼にされた日本の被征服民

日本で日本人の両親のもとに生まれ育つと、ごく自然に自分を、”日本人”だと考える。しかし何千年、何万年に及ぶ歴史を遡ると、私たち日本人は、いくつかの異なる民族に分かれるらしい。それぞれの民族の集団は、何万年もの間に日本列島の東西南北の様々な方向から順次やって来ては、根を下ろし、先にいた民族に戦いを仕掛け、征服し、あるいは、婚姻し、この日本という土地に根付いていった。こうしたことが数万年の間に限りなく繰り返された結果が今の日本人だそうである。私たち日本人は、いくつかの異なる系譜を持った民族集団が複雑に絡み合い、混じりあっており、決して日本人=単一民族ではない。同様に、大陸や半島など外国の異民族からの影響の上に日本の風土に応じての変化が加えられて独特の日本文化なるものが創出された。

この日本列島に最も古くから住んでいる現存の民族は、アイヌ民族だそうである。彼らの血液からのDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかり、これを根拠に、2008年、国会で”アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議”が満場一致で採択された。 縄文時代の終わり頃から、この日本列島に、大陸や半島からの人々が大量に何波にも分かれて、稲作文化と金属器文化を持って移住してきた。この人々は縄文時代からの先住民を制圧して融合しながら勢力を広げ、やがて北部九州から近畿地方まで進出して、”ヤマトの国” (邪馬台国)を建国した。、卑弥呼様の時代には、他の多くの小国を支配下に置いて、現在の奈良県桜井市の辺りを都として北部九州から関東地方辺りまでを統一した。この頃になると当時の文明の先進地帯である中国からも一つの統一された国家として認められ、彼らは、”倭国”と呼びそこに住む人間を”倭人”と呼んでいた。(当時の日本人が自分達の自称を ”わ(我)”と言っていたからという有力な説がある。)

ヤマトの国の政治権力は、やがて天皇を中心に据えた大和朝廷へと発展を遂げ、更に東北、南九州へと領土を拡大していくが、必然的にそれぞれの土地の先住民の激しい抵抗にあう。異民族の征服を目指す朝廷は、南の抵抗勢力を”熊襲(クマソ)”、東や北の抵抗勢力を”蝦夷(エミシ)”と呼んでいた。既に大和朝廷の支配下に入っていた近畿地方などの先住民族の中には、天皇に恭順することに激しく抵抗を続けていた集団もいた。これらの人々は、”土蜘蛛”と呼ばれていた。”熊襲”、”蝦夷”、”土蜘蛛”と朝廷から異族視され征伐の対象とされた人々は、日本の先住民である縄文人の系統でアイヌ民族に近い人々なのではないかと思う。(東北から西日本に至るまでアイヌ語と思われる多くの地名が現存している。)このような朝廷側にとって、まつろわぬ(服従しない)民は、圧倒的な力によって制圧されていった。

それらの”まつろわぬ民”の中でも、”蝦夷”と呼ばれていた日本列島の東方や北方に住む人々の集団が朝廷にとっては、最大級の手ごわい抵抗闘争集団であった。747年朝廷は、2万7千人を派兵して蝦夷の大征伐(征夷)を開始した。騎馬を駆使した巧みな戦術で当初は、蝦夷軍が朝廷軍(征夷軍)に壊滅的な打撃を与えていたが、797年、朝廷側が10万人という大軍を派兵し圧倒的な勝利を治め、”蝦夷”は滅亡の道を余儀なくされた。

こうした戦争の中で朝廷に帰服した蝦夷は、”俘囚”と呼ばれ、中には、捕虜として国内の各地に移配された人々もいた。(強制的な集団移住) 各地の移住先で度々、反乱を起こしたため、朝廷は、彼らを奥羽(東北)へ送還させるが、残った者もいた。彼らは元来、狩猟民で、周囲の農民とは異なる生活様式だったため、疎外、差別され、各地に残った俘囚部落が被差別部落のルーツの一つとなったという説がある。(近年、有力視されている。徳川幕府が身分制度の安定維持のために創出されたという近世政治起源説は、今日では、殆ど破綻している。)

今でも子ども達に語り継がれている日本の昔話の中には、”桃太郎”や”一寸法師”などの鬼退治を扱っているものが多いが、そこには、日本人が忘れてしまった民族の征服、被征服の歴史が織り込まれている。被征服民は、恐ろしい”鬼”と化し、災いをもたらす邪悪な征伐せねばならない対象として描かれている。征服者の侵略を正当化させるために鬼にされてしまったのだろうが、本当は怖い日本の昔話ー鬼退治だったのだ。ちなみに初代の徳川家康から15代の徳川慶喜まで征夷大将軍という役職の地位にあったが、この征夷大将軍とは、まさに大和朝廷の時代から続いている異民族を征伐する軍のトップのこと。(江戸時代の頃には、単に形式的なものとなっていた。)このことから、日本の歴史の中で異民族の征服、侵略に占める比重が決して小さなものではなかったのではないかと思う。





 



2012年10月2日火曜日

ウィルタ、ニヴフ-アイヌだけではなかった日本の少数先住民族

領土などの問題を巡って、隣国の国々と摩擦が生じ、緊張関係が高まっている中で、そもそも日本人とは何か、民族とは何だろう?と、素朴な疑問に駆られます。もともとこの日本列島には、日本民族という共通の言語、文化、生活習慣、宗教を持った大集団など存在しなかったはずです。少なくとも2000年位昔に遡ると、数多くの異なった言語、文化、生活習慣を持った集団 (村、国)が存在して、それらが争いを繰り返していたと思われます。その後、争いを勝ち抜いた強力な集団のもとにまとめられ、日本という一つの国(ヤマト、初期は、現在の九州から関東地方辺りの範囲?)に統一されていったのでしょう。 

 日本とロシアにまたがる北方先住民族の”アイヌ”は、幕末の1854年、ロシアとの和親条約によって北海道が日本領となり、近代化の明治時代に入って、北海道の開拓を推し進めた政府によって、独自の風習が禁じられ、日本語教育を含めた同化政策を強制されるまでは、北海道、千島、樺太の地で、民族独自の言語、文化、宗教を育んでいました。 アイヌの隣人として樺太の地で暮らしていた北方先住民族、”ウィルタ”と、”ニヴフ”も日露戦争の勝利の後、 日本語教育などによる日本人への同化を強いられました。


ウィルタwiki 


ニヴフwiki



" ウィルタ”も”ニヴフ”も主に狩猟、漁猟によって生活を営み、それぞれが独自の言語、文化を所有していた民族でした。 日露戦争後の条約によって、日本が樺太(現在のサハリン)の南半分の領有権を取得したのに伴い、ウィルタとニヴフを含む樺太の少数民族を特定の地域に強制的に住まわせ、日本語指導などの同化教育を受けさせました。にもかかわらず、彼らには、日本国籍を与えなかったと言われています。このような人々の中には、 太平洋戦争において、スパイとしてソ連(当時のロシア)に送り込まれた人々が多数いたと言われています。敗戦後は、戦犯としてシベリアに抑留され強制労働など苛酷な状況に置かれました。抑留解除後は、勝戦国ソ連による樺太全土の占領に伴い、彼らの故郷から追放され、北海道に強制移住させられました。 日本政府は、このことに対して、日本国籍を持たないことを理由に一切の戦後補償、賠償を拒否しました。

現在、北海道内に住むウィルタとニヴフの人々は、それぞれ数十人程度 と言われていますが正確には不明です。(ロシアでは、ウィルタ300人、ニヴフ2000人程度)



2012年9月23日日曜日

このところ尖閣諸島や竹島を巡って、周辺の国々との摩擦が生じ、普段、こうした情勢に疎い私も不安を覚えます。 特に中国は、経済的に日本への影響力が大きく、大規模な日本製品ボイコットなどの経済制裁で、中国経済に大きく依存している製造関係、とりわけ中小、零細企業は、深刻な打撃を受けるのでしょうか。また、中国との軍事衝突という最悪な事態に突入することを予想するような情報が飛び交っていて更に不安を掻き立てられます。

日本人として恥ずかしい話ですがこれらの島々の領有権問題が最近顕在化してくるまでそれぞれの島の名前を何となく聞いたことがあるかなという程度で、それが日本に属し、日本のどこにあるのかということさえも知りませんでした。しかし中国や韓国では、そんな自国の領土に対しての無関心は、非国民として非難され、大問題となるそうです。

そもそもこれらの2つの領土はどういう歴史的な経緯を経て争いの的となっているのか?と思いつき、検索していたら、わかりやすく説明してくれている記事に出会いました。それは、日本共産党の新聞、”赤旗”(私は共産党支持でもないし赤旗の購読もしていません。)からのものでやや左翼的な見地から書かれているかもしれませんが、そんな左翼的な政党ですら歴史的な見解に従い、尖閣諸島、竹島ともに ”日本の領土”であると主張しています。

過去において確かに日本は、日本軍の中国大陸や朝鮮半島の人々に対する非道、残虐な行いによって 癒えることのない深い傷を与えたという負い目を背負っているのは事実です。だからといって、今、他国の領土を強引に自分達のものだと主張したり、外国人に危害を与え、外国企業に損害を与えるような市民の蛮行を最近まで放任する中国政府の姿勢は、世界第2位の経済大国として容認できるものではありません。多くの中国の市民が憎しみと攻撃の対象にした日系企業と日本製品は、中国の近代化と経済発展に大きく貢献しました。日本とアメリカの援助によって積極的に資本主義化を推し進める一方で、強烈な反日教育を行い国民の反日感情を増大させ、言論の自由や選挙権も与えない一党独裁の政治のシステムに対する国民の不満やストレスを外へ向けさせたのです。

日本政府が、共産党が主張するように、これらの領土に対する領有権を理を尽くして根気よく相手側の政府と国際社会に主張しながら外交的努力によって、何とか平和的な解決に導いてくれることを願います。



2012年9月9日日曜日

感動と励まし

病院にいる高齢の母は、私が見舞いに行くと、最近いつもEテレのパラリンピックの録画を見ている。一緒に見るのですが、いろいろユニークな競技があるものだと関心します。例えば ” シッティングバレーボール ” という競技は、脚の不自由な人が座った姿勢でプレイできる球技。 今までこんなスポーツがあるということすら知らなかった。手足にハンディがあるにもかかわらず、陸上や水泳あるいは、車椅子でのほう丸投げなどで、全力を尽くして戦っている選手の姿には、脱帽です。彼らは、人間の持つ逞しさ、したたかさ、柔軟さを身をもって教えてくれます。Eテレで地味にやってないで、総合でゴールデタイムに放送するというわけにはいかなのかな。あれを見て勇気と感動と励ましをもらえる人がかなりいると思うのですが.......


今、日本中が、akb、ske、nmbなどのアイドルブームに湧いていますが、こうしたお人形さんのような画一的な可愛らしさをアピールするのとは別な形で(車椅子に乗りながら歌って踊るなど)日本中の若い人あるいは、老若男女に夢と希望と励ましを与え、そして可能性を教えてくれるような個性的なアイドルグループをプロデュースするというのは、現実的に難しいのでしょうか? 秋元康さん。












2012年8月30日木曜日

生徒が主役の授業

最近、ユニークな学校の存在を知った。 ヴォーカル、ギター、キーボードなどの音楽を本格的に勉強しながら高校卒業の資格が取れるという ”大阪自由学院” という学校だ。そこのホームページによると、髪型とその色、服装など外見に関する校則は、一切ないという。”高校生とはいえ、ファッションも自己表現の一環、あなたらしさをアピールして下さい。” と、学校側は、おしゃれにおいても画一的であるよりも個性的な自己表現の追求を奨励し、”自由に外見を表現する権利” を与えている。始業時間が10時なので、朝の苦手な生徒や遠方からの通学者もゆったり通学できる。押しつけの一斉授業ではないので、好きな時に自分の興味のあるものがマンツーマンで学べるらしい。このような自由な学校は所謂受験競争に打ち勝つには、有利ではないかもしれないし、校則のあり方などで賛否が分かれるだろう。  

” 最近の若者はコンピューターなどと向き合う毎日で、コミュニケーションを苦手としている人が多いように見受けられます。人と接して人の意見を取り入れ、自分の考えと融和させながら、じっくりと答えを導き出していくすべを知らないのではないでしょうか.....” (学院のホームページより抜粋)この学校の理事長でミュージシャンの桑名正博さんのこのメッセージには、現代の若者が抱える問題の他に日本の一般的な学校教育の弱点を仄めかしていると思う。

多くの学校では、子ども達に制服を強制し、服装などの細かい規則で上から押さえつけ管理している。なぜそれが必要なのかとか、それに対する一人一人の意見を聞く耳も持たない。私たち多くの日本人の大人は、高校野球の開会式の入場行進のような足並み揃えて整然と行進する高校生の姿に高校生らしさを感じ好感を抱くが、違う文化で生まれ育った多くの人にとっては、非常に不気味な光景に映るそうである。  私は外国に留学した経験も居住した経験もないので間接的な情報によっての話になるが、欧米では、当たり前の教師と生徒が議論するという機会が日本の学校では極めて少ない。人と接して人の意見を取り入れ、自分の考えと融和させながら、じっくりと答えを導きだしていくすべを学ぶ機会が少なく、考え方の多様性を学べない。私たちの多くは、金八先生のように一方的に自分の価値観や考えを押し付ける授業で生徒を引っ張っていけるカリスマ先生を理想としている。それでは、主体的に考え行動する力は育みにくい。生徒一人一人が主役の授業に転換していくためには、少人数のクラス編成が必要不可欠になる。日本の大学の入学試験の難しさは世界的に知られているが、東大といえども世界の大学ランキングのベスト10にも入れないのは、一見、飛躍しているようだが、このことと全く無関係ではないかもしれない。


追)桑名正博さんは、先月15日、脳幹出血で倒れられ、現在も重篤な状態が続いているそうですが、奇跡的な早いご回復と、再び素晴らしい音楽を聞かせて頂けることを祈っています。








2012年8月22日水曜日

雷に対する防護意識ー日本は遅れている

このところゲリラ豪雨に伴って私の大の苦手な雷様が暴れ廻ることが多く恐ろしいです。前の土曜日は、九州から大阪の野外コンサートを見にきた二人の若い女性が、落雷した木の下にいて犠牲になるという恐ろしく悲劇的な事件がおきました。

落雷による死亡リスクは、交通事故や癌などに比べて極めて低いのですが、世界平均では、落雷被災者のうち、死亡者は、30%であるのに対し、日本では、割合が逆転し、被災者の70%が死亡しているそうです。ちなみにアメリカでは、死亡率15、5%と低いようです。  日本の落雷事故の犠牲者のほとんどが、屋外で木の下などの危険な雨宿りでやられています。昔から言われている ”高い木の下は、安全” というのは、誤った俗説であり、かえって危険なようです。アメリカでは、屋外で雷に遭った場合、建物 (屋根と壁があるしかっりした建物)の中に逃げ込むように、と盛んに国民に対する啓発活動が行われ、オバマ大統領自ら雷雨の中、人身防護を呼びかけたそうです。

日本でも地震と同じように、落雷に対する防護意識の啓発と具体的な回避方法の安全教育が地域、学校、職場などを通じてなされることを強く望みます。

雷は、子どもの頃から本当におっかないです。今でも ”ゴロゴロ”と遠くで鳴っただけでも、怖くてテレビも見ることができません。




2012年8月11日土曜日

オリンピックももう終わり......

オリンピック ロンドン大会も残すところ僅かとなりました。浜口京子ちゃん、とても残念でした。最後のオリンピックのチャンスだといわれていたので是非メダルを貰って欲しかった...福原愛ちゃん銀メダルおめでとうございます。息子と同じ年頃ということで、彼女が小学校1年生の時から雑誌やテレビでお目にかかっていましたが、素敵な大人の女性になりましたね。 なでしこJapan も金メダルを逃したのは残念でしたが最後まで熱い試合を見せてくれて本当にありがとう。選手の皆さんもしばらくゆっくり休んで下さいね。


閉会式は、UKミュージックの祭典になるということで参加アーティストは誰かということがネット上では色々噂されていますが、どんなものになるのか、私にとってはスポーツ以上に楽しみです。






2012年8月4日土曜日

悪質ないじめ

大津市のいじめ自殺事件に世間が注目する中、それに呼応するかのようにA新聞の朝刊の一面に、連載コラム"いじめられている君へ” が開始した。 連日、各界の有名人が ”いじめられている” 子ども達へのメッセージを通じてエールを送っておられる。 現実に今、いじめられている子ども達やいじめをしている子ども達があんなものに直接目を通すのだろうか...お偉い学者先生や特別な才能に恵まれたタレントやスポーツ選手が自分の価値観や人生観の一方的な押し売りをして苦しんでいる子どもに余計にプレッシャーをかけているようで読んでいて不愉快になるものが多い。タレント並みに頻繁にテレビに出演されているある大学の先生は、”このいじめを受けている辛い時期だからこそ読書をして自分を磨きましょう。”と、悠長なアドヴァイスをされ、お薦めの本を数冊挙げられていた。子ども達がどれくらい質の悪い”いじめ”に苦しんでいるのか”いじめの現実”が殆ど見えていないように思う。こういう人達がいくら頑張って助けになろうとしても、全くピント外れでありがた迷惑な結果になる。でも例外もある。8月2日のはるな愛さんのメッセージには、彼女(?)が経験してきたこころの深い痛みが垣間見られそれを乗り越えた人だけが伝えることができる強くて暖かいものを感じることができた。


最近、自殺した18歳の高校生が遺した遺書らしきメモを見て(ネット上で)衝撃を受けました。こちらをクリック    中学時代の同級生から執拗に多額の金銭を要求され、それを支払うために、万引きやひったくりなどの犯罪行為を強要されその執拗な要求にキリがなく逃げ場もなかったようです。  このような極めて悪質ないじめに苦しめられて子どもは,他にも大勢いて、今日もどこかで、あんな悲痛なものを書いたりしているのでしょうか.......本当は、もっと楽しく生きたかった、死にたくない、けどそれしかない、もう疲れたと......これまでにどれだけ多くの犠牲者が警察や学校に ”いじめではなく喧嘩”として無視され、闇に葬り去られているかわからない。大人の社会自体が弱い者いじめの社会だから我々もそういうことには鈍感になっているように感じる。東電の正社員には、危険すぎてさせられない作業を下請けの人材派遣の日雇い作業員にやらせている...こんなことはこの社会では珍しいことではない。


それにしてもあんな悲しいものを遺して、始まったばかりの人生を捨てざるを得なくなった子どもの親は怒りと悲しみでたまらなくなり、救われないだろう.......両親や遺族の承諾が得られれば、新聞やマスコミは、こうしたいじめの犠牲者が遺したメモや日記や遺書を公開することによって、彼らが発していたSOSや心の叫びを通じて、いかにそれが悪質なものであったか、どれほど苦しめられていたかを伝えてほしい。

2012年7月28日土曜日

ブリティッシュ ロック メドレー

4年に一度のオリンピックがロンドンで始まりました。北京大会の壮大なスケールと最新技術を駆使した開会式に圧倒させられたのは、ついこの間のような気がするのにもう4年も過ぎてしまったなんて信じられないな... ( ゚д゚ ) エリザベス女王がヘリコプターから飛び降りてパラシュートで空を飛んだ映像の奇抜な演出には、思わずぶっ飛びました 工工エエェェ(*´Д`*)ェェエエ工工

近年、趣向を凝らした開会式のショーは毎回、大掛かりで派手になっていますが、今回は開催地がロンドンということで私は、スポーツよりも期待していたことが......待っていると出てきました、出てきました...ジャム、キンクス、フー、ピストルズ、エリック クラプトン、クィーン、デビッド ボウイ...ブリティッシュ ロックの歴史メドレー、お陰で今までに見た中で一番楽しいオリンピックの開会式でした...今年70歳になられたポール マッカートニーさんが年齢相応の風貌になられていて嫌でも時代を感じざるをえませんでした。柔道着を着て日本の国技の一つである柔道(ジュード)をついでに世界にアピールして欲しかったなあ...

来月の閉会式には、英国ロックの50年の歴史を集大成したような大物アーティストによるショーが計画されているという情報がネット上に流出していますが、そうだとしたら、本当に楽しみです。





2012年3月29日木曜日

artist Antonietta Varallo / Liliana Frasca

Henry Siddons Mowbray



this week's worldwide artists



今週は、主に風景画を描いている二人の女性画家を取り上げます。


In this feature, I will introduce two female artists, who are working mostly for landscapes.






artist of the week (1) Antonietta Varallo


English biography Click here



イタリアのタラントという港湾都市に生まれ、15歳頃から本格的に絵の勉強を始め、Voltolino Fontani のフリーアカデミーで約1年間学び、その後、巨匠、Luciano Torsi の18年間に及ぶ指導の下で才能を開花させ、1976年にChimera di Arezzo 賞を受賞しました。彼女は、フローレンスのマキャベロ アカデミーとボローニャのグリエルモ マルコーニ アカデミーの名誉教授を務めています。



下記のそれぞれのリンクから Antonietta Varallo の作品の画像をご覧になることができます。


Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Antonietta Varallo.











artist of the week (2) Liliana Frasca


English biography Click here



アルゼンチンのブエノスアイレスにある芸術一家の家庭で生まれました。芸術的に恵まれた環境の中で育ち、美術家への道に進むことを明らかに運命づけられているようでした。 彼女の作品は、印象派の風味を帯びた写実主義と言われているように、建物などが緻密に描写され、かつ遠近感のある作風になっています。


下記のそれぞれのリンクから Liliana Frasca の作品の画像をご覧になることができます。


Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Liliana Frasca.



this week's music
















this week's relaxing video (癒しの動画)













this week's wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)

2012年3月10日土曜日

artist An He / Orestes Bouzon



worldwide artists


今週は、現在、アメリカで活躍している中国人のアーティストとキューバ人のアーティストを取り上げます。


In this feature, I will introduce two great artists, one is a Cuban painter, the other is a Chinese painter, both are now working actively in the United States.


artist of the week (1) An He


English biography Click here


An He は、1957年、中国の広州生まれ。 広州美術学院の学生の時、国家によって組織され第一線で活躍する芸術家だけが入会を認められる 中国芸術家協会の会員に24歳という史上最年少で招かれました。 以降、中国全土の多くの都市で広く作品の展示会が行われ、中国の国家最高芸術賞を受賞しました。3作品が国家によって、北京の国営博物館の永久コレクションとして、購入されました。

1985年に渡米、88年には、サンフランシスコに永住しました。 彼の作品の主な題材は、優雅な着衣の女性です。



下記のそれぞれのリンクからAn He の作品の画像をご覧になることができます。

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of An He.


images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)

images (6)





artist of the week (2) Orestes Bouzon


English biography Click here



1963年2月20日、キューバの首都ハバナ生まれ。 絵画が、幼い頃からの自然な自己表現の方法でした。自身の感情を紙の上で表現することが最も得意で、生活は、彼の視覚の世界を軸に回転し始めました。

1980年に、サン アレハンドロ美術学校に入学を許可され、在学中に、生命の芸術的な美に目覚め、繊細かつドラマティックなスタイルに発展させました。 鮮やかな色使いから醸し出される彼の光の捉え方と、変幻自在の様々な雰囲気や感情を表す才能には、並外れたものがあります。

1994年、母国での抑圧からの開放を求めて放浪していると、グァンタナモのアメリカ海軍基地に辿り着いていました。14ヶ月間の滞在中、画材と交換してもらうために海兵隊を描くことに彼の時間を捧げました。現在、フロリダ州のマイアミ在住。 アメリカ以外にも、ラテンアメリカ、カリブ諸島でその名が知られています。


下記のリンクから Orestes Bouzon の作品の画像をご覧になることができます。

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Orestes Bouzon.








公式サイト  official site




this week's music

















this week's relaxing video













wonderful pictures

2012年3月4日日曜日

artist SHU



worldwide artist

今週は、美しい幻想画で世界的な人気を得ている日本人のデジタルアーティスト、Shu (Mizoguchi)を取り上げます。


this week's feature is Shu(Mizoguchi), a Japanese digital artist, who is gaining popularity worldwide for his beautiful fantasy art.




English biography click here



1972年、広島県に生まれ、1996年ゲーム会社に入社、グラフィック部門を担当していました。2000年、ホームページを立ち上げ、自身の作品を発表し始め、ネット上のイラストコンテストでグランプリを受賞。翌年には、シルバーデザインも発表しました。 2002年、KAGAYA スタジオで3D CGの動画を担当しましたが、2004に、独立し、2006年にジグソーパズルを発売、2007年には、版画アートを発表しました。次々と新作を発表し、多くのファンの支持を得ています。


下記のそれぞれのリンクから Shu の作品のイメージをご覧になることができます。

 
Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Shu.




images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)

images (6)

images (7)








公式サイト     official site



this week's music













this week's relaxing videos













this week's wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)

2012年2月23日木曜日

artist Frederick John Lloyd / Vie Dunn Harr


worldwide artist of the week



feature artist (1)
Frederick John Lloyd Strevens (1902~1990)


English biography Click here




1902年、ロンドンに生まれ、ロンドンの工芸学校と美術学校に通いましたが、主に独学で絵画を勉強しました。 作品がロンドンのロイヤルアカデミーとパリのサロンで定期的に展示されるようになり、1947年になって初めての称賛を得ることができました。

彼の関心の対象は、花と人物ですが、エドワード朝、ヴィクトリア朝時代的な色彩豊かな表現で知られています。救いようもないほどのロマン主義への傾倒とその時代への情熱は作品に如実に表れています。
フランスの印象派の画家達の影響も伺えます。

下記のそれぞれのリンクからFrederick John Lloyd Strevens の作品の画像をご覧になることができます。


Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Frederick John Lloyd Strevens.


images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)





feature artist (2)
Vie Dunn Harr


English biography Click here



1953年、アメリカ、テキサス州のサンアントニオで生まれました。独自の芸術的な表現方法を見いだすまでに時間がかかりましたが、アートにおける多様な可能性を丹念に追求し続けました。イタリアのいくつかの美術教育機関で修行しましたが、こうした伝統的な美術教育の中での初期の経験が彼女の創作の基盤となっています。形式主義を信奉し、自身の作品も建築的な要素に根ざした有機的な形態となっています。感覚的に形を捉え、自然の持つ強さとはかなさを表現しています。彼女は、現代のリアリストであると自認しています。

”私の作品は、私が見て知った物の全てを反映しています。私が観察してきた花は、女性のように繊細な生き物ですが、それぞれに逆境に打ち勝つ強さを秘めています。” と、Vie Dunn Harr は、語っています。

 

下記のそれぞれのリンクから Vie Dunn Harr の作品の画像をご覧になることができます。 

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Vie Dunn Harr.


images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)





music














relaxing video (癒しの動画)












wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)

2012年2月12日日曜日

artist Josep Teixido / Dae Chun Kim



worldwide artist of the week


今週はスペイン人画家の Josep Teixido と 韓国人画家のDae Chun Kim を取り上げます。


in this feature, I will introduce two artists, one is Josep Teixido, a Spanish painter, the other is Dae Chun Kim, a Korean painter.


artist (1)
Josep Teixido

English biography Crick here



スペインのバルセロナの北東に位置するカレーリャという町で生まれました。子どもの頃からずっと絵画の魅力に取りつかれ、学校よりもむしろ周囲の環境から知識を取り入れるなどして、主に独学で学びました。絵画は、彼自身を表現する独自の方法なので、絵画制作の必需品であるパレットナイフと色彩によって、心の内側からの声をカンバスの上に形にして表現しています。自然の愛好家であり観察者である彼にとって、周りの環境はひらめきの源になっています。現在、彼の情熱を絵画制作にのみ捧げる生活で、この上なく幸福であるそうです


下記のそれぞれのリンクからJosep Teixido の作品の画像をご覧になることができます。

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Josep Teixido.


images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)





artist (2) Dae Chun Kim



English biography Click here


鮮やかで快適な色使いが彼の作品に平和と暖かく心地良い感覚を持たらしています。地中海やイギリス風の庭園などヨーロッパ的な風景が得意な題材です。 韓国の弘益大学校で油彩画を専攻しました。 30年以上に亘り絵を描き続け、これまでにおびただしい賞賛を得ています。 ロンドンのバーミンガム画廊や韓国のHyundai アートギャラリーなどを含む、数え切れない展覧会の場で公開されてきました。


下記のそれぞれのリンクから Dae Chun Kim の作品の画像をご覧になることができます。


Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Dae Chun Kim.



images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)




music












relaxing videos (癒しの動画)












wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)

2012年2月5日日曜日

artist Pino Daeni

George goodwin kilburne


worldwide artist of the week


今週は、一昨年他界し、世界中から惜しまれているイタリア人画家、Pino Daeni (1939-2010)を取り上げます。


this week's feature is Pino Daeni(1939-2010), an Italian painter, who passed away two years ago and has been sorely missed throughout the world.


English biography Click here


Pino Daeni  本名 Giuseppe Dangelico は、1939年11月8日、イタリアに生まれ、バリ アート インステテュートと、ミラノのブレラ アカデミーで学びました。裸体画と人物画を完璧に習得し、ラファエル前派マッキアイオーリ影響を強く受けました。

母国でアーティストとしての成功を収めた後、更なる機会と芸術的な自由を求めてアメリカへの移住を決心しました。渡米後まもなく、有名なボルギ画廊に見い出されて、ニューヨークとボストンでいくつかの立派な個展が開かれました。

彼の初期の作品の特徴は、柔らかくロマンテックな登場人物(主にロングスカートやロングドレスの女性)によって特徴付けられていました。このことが書籍の出版社の目にとまり、次の20年間(ロマンス時代)の殆どをDanielle Steele, Sylvie Summerfield, Amanda Ashley といった作家の作品の何百もの表紙画を描くことに捧げました。ある無名のモデルを使って、現在でもなお鳴り響いている人々の心の琴線に触れるような作品を手がけました。ワクワクするような暖かい色彩、微妙で繊細ではあるが単刀直入な題材へのアプローチといったテクニックは、彼のトレードマーク、才能そのものであり、なぜ彼の作品が全米でますます需要が高まっているのか、世界中の美術コレクターによって賞賛を浴びているのかということの理由なのです。またそれは、彼が商業アーティストとしの成功を決定的にした要因であり、自身の想いや感情を表現したいという願望でもありました。

Pinoによって制作されたカンバスは、優しさ、思いやり、ノスタルジー、家族の愛情を喚起します。鮮やかな夏の海辺(主に彼が育った地中海沿岸)がしばしば作品の舞台となっています。  美しい女性(彼の姉妹、叔母、いとこ)の周囲に彼の分身である幼い少年が、愛情から孤独までの様々な喜怒哀楽の感情の状態の中で見受けられます。



下記のそれぞれのリンクからPino の作品の画像をご覧になることができます。


click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Pino.


images (1)

images (2)

images (3)


images (4)

images (5)

images (6)

images (7)







 


music











relaxing video (癒しの動画)












wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)

2012年1月29日日曜日

artist KAGAYA

Delphin Enjolras



worldwide artist of the week


今週は、日本が、世界に誇るデジタルアーティスト、KAGAYA を取り上げます。


this week's feature is KAGAYA, a Japanese digital artist, whose art is the pride of Japan.


English biography Click here


近年では、全国で上映され大ヒットしたプラネタリウム番組 ”銀河鉄道の夜”や、”スターリーテイルズ”の制作、また、人気声優アイドル、水樹奈々さんのライブで、史上初の東京ドームプラネタリウムを実現させるなどの壮大な企画で、夢とロマンを世界中に届け、話題になっています。 こちらに 詳細なプロフィールと経歴があります。


下記のそれぞれのリンクからKAGAYAの作品の画像をご覧になることができます。


Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of KAGAYA.


images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)

images (6)

images (7)






music









relaxing video (癒しの動画)








wonderful images


2012年1月22日日曜日

artist Robert Finale

                  Alfred Stevens (1823-1906)



worldwide artist


今週は、美しい世界の街の風景を描いている、キューバ出身の画家、Robert Finaleを取り上げます。


this week's feature is Robert Finale, a painter from Cuba, who has been working for beautiful landscape paintings of world cities.


English biography Click here



初めてネットを通じてRobert Finale さんの作品の画像を拝見した時、”世の中には、こんな綺麗な絵を描く人がいるんだな......”と、感動しました。透明感のある淡い色彩に包まれた清涼な雰囲気の作品群から、”北欧かどこか寒そうな国の出身の画家によって描かれたに違いない”と、勝手な思い込みを抱いていました。 最近、そうではないことを知って驚きました。また、繊細なタッチの作風からやや神経質な線の細い典型的な芸術家タイプを想像しますが、格闘家か野球選手のような頑強そうな風貌(写真で拝見しただけですが)も意外でした。

深く根付いた絵画への情熱と類い稀なる天性の才能から創り出される魅惑的な作品は、鑑賞する者に心温まる平和と幸福感を与えます。人の心を癒す力を持った数少ないアーティストの一人だと言っても過言ではないと思います。

そんな素晴らしいアートを生み出している Finaleさんですが、幼少のころから、苦労や困難を知らずに過ごせない境遇に置かれていました。僅か2歳にして家族に連れられて、自由な生活とチャンスを求めて、母国キューバを去り渡米しました。アメリカで彼は、勤勉と規律を学び、アートに専心できる潜在的な才能に気づきました。 5歳のころには、どこへ行くにも鉛筆とスケッチブックを携えていて、鑑賞した映画の場面や家族との休暇旅行、行楽など全ての事柄をスケッチしていたそうです。

彼のイメージの原点は、子供時代のスケッチにあると言われています。彼の母は、常にそれを宝物のように大事にしていて、彼を励ましていました。その幼少の頃のスケッチが後に、妻への特別な贈り物にもなりました。

物静かで優しい性質のFimaleさんは、自身の作品を個々の人々とのコミュニケーションのための手段と考えています。豊富な色彩と触感によって、作品の中に彼自身の豊かな言葉を紡いでいます。場所や物を通じて表現されているこの豊かな絵画のボキャボラリー(人の感情にアピールするもの)によって、彼が自身の内的世界や、私たちすべての者に内在している微妙な壊れやすい感情の世界に踏み込むことを可能にしています。ある人がある作品を鑑賞して生じる感情こそがこのコミュニケーションの素晴らしさだと考えています。

作品制作の最後の仕上げをする瞬間、アートは普遍的な言語だという事実を認識するそうです。ひとつのカンバスは、我々全ての内に存在していた、及び存在している無数の異なった感情の窓を表現しており、鑑賞者は、人生という旅のより良い理解のために、自身の内なる世界を見つめるためのパワフルな道具を提供してもらえるのです。


下記のそれぞれのリンクから
Robert Finale の作品の画像をご覧になることができます。

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Robert Finale.



images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)

images (6)

images (7)


images (8)








music












relaxing video (癒しの動画)












wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)

2012年1月15日日曜日

artist John Mason / Juan Fortuny/ Aimee Stewart


this week's worldwide artists


今週は、3人の幻想的な作風の画家、 John Mason , Juan FortunyAimee Stewart を紹介します。

In this feature, I will introduce three fantasy artists, John Mason, Juan Fortuny, and Aimee Stewart.


feature artist of the week (1) John Mason
 

English biography Click here


John Mason は、卓越したアーティストであるだけでなく、ミュージシャンであり、コンピューター アニメーターでもあります。彼は、自身の絵画のイメージを ”心の眼” から生ずるものと考えています。彼のイメージは、生き生きとした生命を帯びた幻想的な風景画を創り出しています。 古代文明や純粋な自然の天然の美に惹かれているようです。


下記のそれぞれのリンクからJohn Mason の作品の画像をご覧になれます。

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of John Mason.
 


feature artist of the week (2) Juan Fortuny


申しわけありませんが、Juan Fortuny について何も情報が得られませんでした。

Unfortunately, I can not get any information about the artist. (Juan Fortuny)


下記のそれぞれのリンクから Juan Fortuny の作品の画像をご覧になることができます。
 
Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Juan Fortuny.



images (1)

images (2)

images (3)






feature artist of the week (3) Aimee Stewart


English biography Click here


彼女は、 正当な理由で ”ルネサンス ウーマン” という肩書きを進んで採用しています。独学のアーティスト、写真家、深層意識や幻想に耳を傾ける作曲家として、超人的な創造性を発揮した生活を送っています。1999年に未熟なウェブデザイナーとしてキャリアをスタートさせましたが、2005年までには、単純な絵画から実験的な画像加工を試みるアーティストへと飛躍しました。その過去3年間で、デジタルアートと従来の絵画の境界を飛び越え、垣根を取り除いてしまいました。 

現在、世界的に出版されている雑誌 ” Advanced Photoshop Magazine" において、熟練者クラスの受講生に画像処理の個別指導を行なっています。彼女の作品は、世界中の多数の雑誌で発表されているので、幅広い層の素晴らしい顧客と共に仕事をしています。




下記のそれぞれのリンクから Aimee Stewart の作品の画像をご覧になることができます。

Click on the links below will take you to the sites where you can see the images of the works of Aimee Stewart.



images (1)

images (2)

images (3)

images (4)

images (5)



music












relaxing video











wonderful images


images (1)

images (2)

images (3)