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2012年10月9日火曜日

鬼にされた日本の被征服民

日本で日本人の両親のもとに生まれ育つと、ごく自然に自分を、”日本人”だと考える。しかし何千年、何万年に及ぶ歴史を遡ると、私たち日本人は、いくつかの異なる民族に分かれるらしい。それぞれの民族の集団は、何万年もの間に日本列島の東西南北の様々な方向から順次やって来ては、根を下ろし、先にいた民族に戦いを仕掛け、征服し、あるいは、婚姻し、この日本という土地に根付いていった。こうしたことが数万年の間に限りなく繰り返された結果が今の日本人だそうである。私たち日本人は、いくつかの異なる系譜を持った民族集団が複雑に絡み合い、混じりあっており、決して日本人=単一民族ではない。同様に、大陸や半島など外国の異民族からの影響の上に日本の風土に応じての変化が加えられて独特の日本文化なるものが創出された。

この日本列島に最も古くから住んでいる現存の民族は、アイヌ民族だそうである。彼らの血液からのDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかり、これを根拠に、2008年、国会で”アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議”が満場一致で採択された。 縄文時代の終わり頃から、この日本列島に、大陸や半島からの人々が大量に何波にも分かれて、稲作文化と金属器文化を持って移住してきた。この人々は縄文時代からの先住民を制圧して融合しながら勢力を広げ、やがて北部九州から近畿地方まで進出して、”ヤマトの国” (邪馬台国)を建国した。、卑弥呼様の時代には、他の多くの小国を支配下に置いて、現在の奈良県桜井市の辺りを都として北部九州から関東地方辺りまでを統一した。この頃になると当時の文明の先進地帯である中国からも一つの統一された国家として認められ、彼らは、”倭国”と呼びそこに住む人間を”倭人”と呼んでいた。(当時の日本人が自分達の自称を ”わ(我)”と言っていたからという有力な説がある。)

ヤマトの国の政治権力は、やがて天皇を中心に据えた大和朝廷へと発展を遂げ、更に東北、南九州へと領土を拡大していくが、必然的にそれぞれの土地の先住民の激しい抵抗にあう。異民族の征服を目指す朝廷は、南の抵抗勢力を”熊襲(クマソ)”、東や北の抵抗勢力を”蝦夷(エミシ)”と呼んでいた。既に大和朝廷の支配下に入っていた近畿地方などの先住民族の中には、天皇に恭順することに激しく抵抗を続けていた集団もいた。これらの人々は、”土蜘蛛”と呼ばれていた。”熊襲”、”蝦夷”、”土蜘蛛”と朝廷から異族視され征伐の対象とされた人々は、日本の先住民である縄文人の系統でアイヌ民族に近い人々なのではないかと思う。(東北から西日本に至るまでアイヌ語と思われる多くの地名が現存している。)このような朝廷側にとって、まつろわぬ(服従しない)民は、圧倒的な力によって制圧されていった。

それらの”まつろわぬ民”の中でも、”蝦夷”と呼ばれていた日本列島の東方や北方に住む人々の集団が朝廷にとっては、最大級の手ごわい抵抗闘争集団であった。747年朝廷は、2万7千人を派兵して蝦夷の大征伐(征夷)を開始した。騎馬を駆使した巧みな戦術で当初は、蝦夷軍が朝廷軍(征夷軍)に壊滅的な打撃を与えていたが、797年、朝廷側が10万人という大軍を派兵し圧倒的な勝利を治め、”蝦夷”は滅亡の道を余儀なくされた。

こうした戦争の中で朝廷に帰服した蝦夷は、”俘囚”と呼ばれ、中には、捕虜として国内の各地に移配された人々もいた。(強制的な集団移住) 各地の移住先で度々、反乱を起こしたため、朝廷は、彼らを奥羽(東北)へ送還させるが、残った者もいた。彼らは元来、狩猟民で、周囲の農民とは異なる生活様式だったため、疎外、差別され、各地に残った俘囚部落が被差別部落のルーツの一つとなったという説がある。(近年、有力視されている。徳川幕府が身分制度の安定維持のために創出されたという近世政治起源説は、今日では、殆ど破綻している。)

今でも子ども達に語り継がれている日本の昔話の中には、”桃太郎”や”一寸法師”などの鬼退治を扱っているものが多いが、そこには、日本人が忘れてしまった民族の征服、被征服の歴史が織り込まれている。被征服民は、恐ろしい”鬼”と化し、災いをもたらす邪悪な征伐せねばならない対象として描かれている。征服者の侵略を正当化させるために鬼にされてしまったのだろうが、本当は怖い日本の昔話ー鬼退治だったのだ。ちなみに初代の徳川家康から15代の徳川慶喜まで征夷大将軍という役職の地位にあったが、この征夷大将軍とは、まさに大和朝廷の時代から続いている異民族を征伐する軍のトップのこと。(江戸時代の頃には、単に形式的なものとなっていた。)このことから、日本の歴史の中で異民族の征服、侵略に占める比重が決して小さなものではなかったのではないかと思う。





 



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