最近、面白い本に出会った。 佐藤愛子という大ベテラン作家の ”私の遺言”という作品。著者が70年代の半ばに手に入れた北海道の夏の別荘でポルターガイストやラップ現象のような怪奇現象(著者は心霊現象と捉えている。)に悩まされ、これがきっかけで霊媒体質になり東京の自宅や旅先のホテルでも摩訶不思議な攻撃が執拗に続いた。激しい頭痛や膝の痛みといった肉体的な苦痛にまで発展するなど深刻な状況となった。得体の知れない見えない敵に対して、巷の評判の多くの霊能者の協力を得てお祓いを試みるもなかなか治まらない悪戦苦闘ぶりを描いた著者自身の実体験に基づくノンフィクション(らしい。) 心霊やスピリチュアルといった言葉を聞いただけで ”あほらしい”と言い放つ唯脳論者の人からは、”この作者の頭はおかしい”などと一笑に付してひと蹴りされるだけだろう。
私は普段、小説などはあまり読まないのでこの作品がこの作家との初めてのご縁であるが、佐藤愛子氏は、直木賞、女流文学賞、菊池寛賞などの受賞歴があり、女流文学者会の会長などを務めた文壇の大御所である。こういう立場にある人が心霊などという超常現象を自分の実体験の如く、作品として世に出すことは、それ相当の覚悟と勇気を要したに違いないだろう。この作品の中に記された怪奇現象が本当に実体験だとしたら、”事実は小説よりも奇なり” である。夜通し発生する激しいラップ音、電灯やテレビが勝手についたり、他人が介在していることが考えられない時にガスコンロの上に取り付けられた換気扇が外され床の上に置かれていたり、倉庫に置かれていた何本かのボトルが勝手にテーブルの上に並んでいたり、電話や車のキーがソファの中にかくされていたりといった怪奇を通り越した奇想天外な不気味な現象のオンパレードは、下手なオカルト映画やホラー映画よりも迫力があり恐怖心を煽られる。
多数の有名な霊能者に相談してお祓いや除霊を試みるが、その度に、それを嘲笑うかのように、かえって、得体の知れないストーカーからの攻撃はエスカレートし、著者は、約20年近くも執念深い怪奇現象に苦しめられたそうだ。 こうした心霊現象(?)の質の悪さは、周囲の理解をなかなか得られないことである。周囲の者に相談しても、こうしたことに興味のある人や霊能者以外からはまともに相手にされない。実際、毎日昼夜を問わず執拗な怪奇現象に悩まされていても、同じ場所に他人がいる時はなにも起こらない。 その現象はさなざまな怨霊(?)が絡んでいて複雑なのだが、そのひとつにアイヌの地縛霊と著者の祖先および著者の前世との絡みがあると捉え、佐藤愛子氏は、和人に迫害されたアイヌ民族の怨念の歴史に思いを馳せ始めた。また、このことがきっかけで、宇宙には、この物質世界の他に4次元、5次元といった(いわゆる霊界など)精神世界が存在することを認識し始める。この精神世界は、意識の波動の高低によって細かい階層に分かれているらしい、ということを学び、波動の低い悪質な低級霊を寄せ付けないためには、日頃から精神修養に努め、意識の波動を高めていかなければならないという結論に達したようだ。
次から次へと高名な霊能者を訪ね、様々なお祓いを試し続けて問題の解決を謀ろうとする 著者の行動と、苦しみや困難から逃れ、お金と物と形式で厄介な問題を片付けようとする現代の多くの日本人の姿勢とをかぶせて自虐的に皮肉り、物質世界の価値観にどっぷりつかりこころの波動を低下させている私達への警告をこめたメッセージのように感じる。
この作品の世界をどう受け取るかは人それぞれだろう。スピリチュアルな世界は私も興味を惹かれるが、この作品で著者が最も訴えたい大事なことは、私も目を逸らし疎んじがちだったものなので、 自分の死後の世界の有様を想うと、自分のこころのあり様が少し不安になってしまう。
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2013年4月26日金曜日
2013年3月16日土曜日
母が遺して逝ったもの
先月他界した母の後年は病気と障害との闘いだった。持ち前の忍耐力と精神力で苦しい状況も何とか切り抜けてきた。まさに人生とは闘いだということを身を持って教えてくれた。いつも病気や障害と闘って生きていた母が目に浮かぶ。 37歳頃に受けた子宮外妊娠の手術による輸血でC型肝炎に感染、後に肝硬変を患い、50代半ばで胃癌のため胃の大部分を切除、この時に受けた手術による輸血で両下肢麻痺を引き起こす難病の原因になるウィルスに感染して歩行困難になった。そして80歳を過ぎ腸閉塞と肺炎を併発、極めて危険な状況の中、手術は成功、しかし度重なる腸からの出血のため、腸の再手術、人工肛門を余儀なくされたが奇跡的に生き延びることができた。その3年後の昨年11月には、尿路感染症からの敗血症で絶食状態が続き何とか持ちこたえ、昨年末には、流動食ではあるが3度の食事が取れるようになり体力が回復してきたように思えたが、先月2日再び敗血症による高熱に襲われ、心不全をおこし、ついに力尽きてしまった。
50代半ばで難病を引き起こすウィルスに感染し、肢体不自由の身になってからは日常生活の不便さは勿論、同世代の女性が普通に楽しんでいた旅行、温泉、買物、食べ歩きなどの楽しみも奪われていた。しかし主婦という立場上、不自由な足を引きずりながら家族のために懸命に家事もこなさなければならない時期もあった。一時的に絶望感に打ちひしがれることはあったが、常に自分の病気と障害と闘い、出来るだけ人に頼らず、デーサービスなどささやかな楽しみを見つけ前向きに生きていた。そんな中にあっても頭の中はいつも自分のことよりも子どもや孫たちへの想いや心配事で一杯だった。
約3年前、肺炎を併発しながらの腸閉塞の手術後、何度も集中治療室のお世話になったが、その度に母は、恐ろしい程、苦しんでいた。心拍数が1分間に100から180位まで恐ろしく速くなっていた。臆病者の私は,見ていて本当に辛く怖かった。しかしこの時私に一つの考えが浮かんだ。”母は今、生きることは闘いだということを身を持って教えてくれている。残酷なようだが、これから厳しい社会の現実と向き合わなければならない大学生の息子が、祖母の生きるための真剣な苦闘を目の当たりにすると,何かを感じてくれるかもしれない。” 翌日早速息子を連れて集中治療室の母を見舞った。 ”お祖母ちゃんは、ただ息をするだけでもあんなに苦しんでいる。苦しんで一生懸命生きようとしている。楽に息をして普通に生きられるということだけでもありがたいことがわかるな。”という私の言葉を、息子は、それまでに見せたこともないような真剣な表情で無言のままただただ頷いて聞いていた。奇跡的な回復の後、敗血症に侵されるまでの約3年間、持ち前の勤勉さで、リハビリ、食事と生きるために懸命に前向きに頑張っていた。
80歳を過ぎての2度の開腹手術、大量の輸血、敗血症とこれでもか、これでもかと母の寿命を脅かすものと懸命に闘い、心臓も頑張って頑張りぬいたが度重なる敗血症の高熱についに心不全をおこし力尽きてしまった。
母が見せてくれた類まれな忍耐力と精神力は、このまま闇に葬り去ってしまうのは、娘としてとても忍びがたいという思いがする。母が遺した形のない遺産として多くの人に語りついでいきたいという思いに駆られている。
お母ちゃん、本当に長い闘病生活おつかれさまでした。そして最後に、たくさんの愛情をありがとう。 今は、ゆっくり安らかに休んでね。
50代半ばで難病を引き起こすウィルスに感染し、肢体不自由の身になってからは日常生活の不便さは勿論、同世代の女性が普通に楽しんでいた旅行、温泉、買物、食べ歩きなどの楽しみも奪われていた。しかし主婦という立場上、不自由な足を引きずりながら家族のために懸命に家事もこなさなければならない時期もあった。一時的に絶望感に打ちひしがれることはあったが、常に自分の病気と障害と闘い、出来るだけ人に頼らず、デーサービスなどささやかな楽しみを見つけ前向きに生きていた。そんな中にあっても頭の中はいつも自分のことよりも子どもや孫たちへの想いや心配事で一杯だった。
約3年前、肺炎を併発しながらの腸閉塞の手術後、何度も集中治療室のお世話になったが、その度に母は、恐ろしい程、苦しんでいた。心拍数が1分間に100から180位まで恐ろしく速くなっていた。臆病者の私は,見ていて本当に辛く怖かった。しかしこの時私に一つの考えが浮かんだ。”母は今、生きることは闘いだということを身を持って教えてくれている。残酷なようだが、これから厳しい社会の現実と向き合わなければならない大学生の息子が、祖母の生きるための真剣な苦闘を目の当たりにすると,何かを感じてくれるかもしれない。” 翌日早速息子を連れて集中治療室の母を見舞った。 ”お祖母ちゃんは、ただ息をするだけでもあんなに苦しんでいる。苦しんで一生懸命生きようとしている。楽に息をして普通に生きられるということだけでもありがたいことがわかるな。”という私の言葉を、息子は、それまでに見せたこともないような真剣な表情で無言のままただただ頷いて聞いていた。奇跡的な回復の後、敗血症に侵されるまでの約3年間、持ち前の勤勉さで、リハビリ、食事と生きるために懸命に前向きに頑張っていた。
80歳を過ぎての2度の開腹手術、大量の輸血、敗血症とこれでもか、これでもかと母の寿命を脅かすものと懸命に闘い、心臓も頑張って頑張りぬいたが度重なる敗血症の高熱についに心不全をおこし力尽きてしまった。
母が見せてくれた類まれな忍耐力と精神力は、このまま闇に葬り去ってしまうのは、娘としてとても忍びがたいという思いがする。母が遺した形のない遺産として多くの人に語りついでいきたいという思いに駆られている。
お母ちゃん、本当に長い闘病生活おつかれさまでした。そして最後に、たくさんの愛情をありがとう。 今は、ゆっくり安らかに休んでね。
2013年3月1日金曜日
私に行かんといてと言ったのに、逝ってしまった母
母がこの世界から去って、4週間になろうとしていますが、直後よりも今ごろになって日増しに寂しさというか喪失感に苛まれています。21年前祖母が他界した時もそのような時期がありましたが、今回の母の場合、その比ではありません。 3年間、往復4時間の道のりを週2回遠距離介護に通い、母の在命中は、”いつまでこんな状況が続くのか”と、イラだち、ついには、、弱り果てた母にまで、面と向かって、不満をこぼしてしまった親不孝な私、こんなに早く母と別れなければならないと知っていたら、もっと母とすごす時間を大切にして動画や写真など記録や思い出作りに励んだのにと、悔やまれます。 母を失った今頃になって、母と過ごした全ての時間が貴重で懐かしい思い出となり、母が生きていた頃に戻って、もう一度会ってみたいというかなわぬ望みに悩まされています。
病気のため母が亡くなる前の2週間は、全く顔を会わせておらず、息を引き取る30分前に初めて知らせを受けましたが、間に合わず最期も看取ることができなかったことが、とても心残りです。
亡くなる1ヶ月程前の今年のお正月明けのある日に見舞った時のことを思い出すと、胸を締め付けられる想いがします。 私が、少しでも母のベッドから離れようとすると、その度に、私の名前を呼び、”行かんといて!”と叫びました。(その頃は、体力的にかなり弱っていて、普通は、声も出にくかったのですが。)それまでそんなことは一度もなかったので驚き、後ろ髪を引かれる想いで部屋を出たのを思い出します。今、思うと、一人ぼっちの孤独の中で、迫り来る死の影に怯えていたのでしょうか.......結局は、その1ヶ月足らずのうちに、自らあっけなく逝ってしまったのですが.......
最後に見舞ったのは、1月18日。この日、母の病室に行き、眠っていた母の耳元で、”お母ちゃん、来たで!”と、声をかけると、すぐ、目を開き、ほんの3日前に顔を合わせたところなのに、”長いこと来なかったな."と、とぼけたことを言って迎えてくれました。この頃は自発的にいろいろな話をする体力もなかったのですが,” 葬式するんか?”と、急に突飛なことを言ったりしました。その時は全く思いもよりませんでしたが、死期が迫り、魂がこの世とあの世(3次元と4次元、5次元?)を行ったり来たりしていたのかもしれません。あの時点で母は、体は私と同じ時間と空間を共有していましたが、魂は、2週間後の未来の世界にあり、そこから私に話かけていたのかもしれないと思ったりします。約2週間後に、兄から緊急の知らせを受け、駆けつけた時には、2週間ぶりに対面した母は、既に冷たくなっていました。この2週間ぶりの無言の対面を思うと、底のない深い悲しみに沈みそうですが、2週間早く、最期の時を迎えた母の魂と会っていたと考えると、気持ちが慰められます。
それでもやはり時間を戻せるなら、亡くなる2週間前にもどり、毎日母を見舞って、ずっと母に寄り添い、そして、その時には、私が子どものように、”お母ちゃん、行かんといて!”と、叫んで最期を看取りたかった。
病気のため母が亡くなる前の2週間は、全く顔を会わせておらず、息を引き取る30分前に初めて知らせを受けましたが、間に合わず最期も看取ることができなかったことが、とても心残りです。
亡くなる1ヶ月程前の今年のお正月明けのある日に見舞った時のことを思い出すと、胸を締め付けられる想いがします。 私が、少しでも母のベッドから離れようとすると、その度に、私の名前を呼び、”行かんといて!”と叫びました。(その頃は、体力的にかなり弱っていて、普通は、声も出にくかったのですが。)それまでそんなことは一度もなかったので驚き、後ろ髪を引かれる想いで部屋を出たのを思い出します。今、思うと、一人ぼっちの孤独の中で、迫り来る死の影に怯えていたのでしょうか.......結局は、その1ヶ月足らずのうちに、自らあっけなく逝ってしまったのですが.......
最後に見舞ったのは、1月18日。この日、母の病室に行き、眠っていた母の耳元で、”お母ちゃん、来たで!”と、声をかけると、すぐ、目を開き、ほんの3日前に顔を合わせたところなのに、”長いこと来なかったな."と、とぼけたことを言って迎えてくれました。この頃は自発的にいろいろな話をする体力もなかったのですが,” 葬式するんか?”と、急に突飛なことを言ったりしました。その時は全く思いもよりませんでしたが、死期が迫り、魂がこの世とあの世(3次元と4次元、5次元?)を行ったり来たりしていたのかもしれません。あの時点で母は、体は私と同じ時間と空間を共有していましたが、魂は、2週間後の未来の世界にあり、そこから私に話かけていたのかもしれないと思ったりします。約2週間後に、兄から緊急の知らせを受け、駆けつけた時には、2週間ぶりに対面した母は、既に冷たくなっていました。この2週間ぶりの無言の対面を思うと、底のない深い悲しみに沈みそうですが、2週間早く、最期の時を迎えた母の魂と会っていたと考えると、気持ちが慰められます。
それでもやはり時間を戻せるなら、亡くなる2週間前にもどり、毎日母を見舞って、ずっと母に寄り添い、そして、その時には、私が子どものように、”お母ちゃん、行かんといて!”と、叫んで最期を看取りたかった。
2013年2月16日土曜日
母との突然の別れ
今月の初め、今までの人生で最も悲しい出来事に遭遇しました。 母が3年以上に及ぶ闘病生活の末、2月2日午後9時53分、ついに力が尽きました。84歳でした。本当によく頑張ってくれました。
2009年11月から12月にかけて腸の手術を2回受け、その間、何度もかなり厳しい状況を乗り越え、2010年5月には、敗血症に襲われましたが、これにも打ち勝ち、その3ヶ月後には自力で車椅子を動かせる程回復しました。 毎日の病院食やおやつを楽しみにして、テレビを見て過ごすといった小康状態を保っていましたが、昨年の夏頃からなんとなく元気がなくなりました。11月の半ば過ぎ、尿路感染から再び敗血症に見舞われ、非常に危険な状態に追いやられましたが、再び状態も落ち着き、絶食から食事も再開され、毎日3度の病院食がスムーズに食べられるようになり、回復の兆しが見えてきた矢先のことでした。
入院先の病院は何度か変わりましたが、3年間大阪の高槻市内の自宅から母のいる堺市内の病院まで週2回遠距離介護に通っていました。 残念なことに、亡くなる2週間前は、私がノロウィルスに感染した上に、風邪をひいてしまったりして、全く見舞いに行っていませんでした。その日の夜9時半前に兄から緊急の電話があった時も38度の熱があり、初めは、様子を見ることにしましたが、心配になり、タクシーを呼び、母の入院先の病院に向かうことにしました。その時兄から2回目の電話があり”即、来るように”とかなり緊迫した様子が伝わっていました。それから程なくして来たタクシーに乗り病院に着いた頃にはフラフラになって半分倒れそうでした。 ”こちらのお部屋に移られました”という看護師さんの案内で緊張した面持ちで部屋を入っていくと、広い個室の中で迎えてくれた兄の第一声が ”20分程前に息を引き取ったとこや。” ベッドに寝かされた母に目を向けると顔には、白い布がかぶせられていました。 2週間ぶりの母との再会がこんなに悲しいものになるなんて......人生の厳しい現実を改めて思い知らされました。後で時間を確認すると、実際には、タクシーで家を出たわずか3分後に母は、他界していました。
兄夫婦の話によるとその日の昼食を兄が食べさせてあげるとほぼ全部食べ、午後3時頃に再び訪れると、いつもと変わらず テレビを見て過ごしていましたが、何となく息が荒々しかったとのこと。午後6時半ごろ兄の自宅に病院から”血圧が下がって心配な状態”と連絡があり、駆けつけると、次第に血圧も安定して落ち着き、苦しそうにしている様子もなく眠り始めたので、安心して9時頃一旦帰宅したそうですがそのわずか30分足らずで再び呼び出されたました。この時は、心拍数がどんどん下がり主治医から救命できる見込みはないと告げられ、やがて母の心臓は止まってしまいました。あんなに何度も病院に通ったのに、最期を看取れなかったのが残念で悔しくて.......ただあまり苦しまず安らかに旅立っていったことが、私にとってせめてもの救いでした。(これまでに何度も苦しみを味わっていましたが)
かなり弱ってきてはいましたが、もう少し生きてくれるのではないかと期待していたので、私にとっては、突然の予想外のことでした。今頃嘆いてもどうしようもないのですが、”もっと車椅子に乗せていろいろなところに連れていってあげて楽しませてあげればよかった。”などと後悔が残ります。”もう少し状態が良くなったらこの春こそ咲き乱れる桜の花を間近で見せてやろう。”なんて考えていたのですが、12月、1月の厳しい寒さに頑張って耐えていたのに、春を待たずに逝ってしまったのが本当に可哀想で、悲しいです。今年の桜は私にとって何とも寂しく辛いものになりそうです。それにしても本当にこの3年間よく前向きにがんばってくれました。 ”お母ちゃん、ありがとう。 しばらくゆっくり休んで、この次に生まれ変わる時は、もっと健康に恵まれ、苦労のない幸せな人生を歩んでね。”
2009年11月から12月にかけて腸の手術を2回受け、その間、何度もかなり厳しい状況を乗り越え、2010年5月には、敗血症に襲われましたが、これにも打ち勝ち、その3ヶ月後には自力で車椅子を動かせる程回復しました。 毎日の病院食やおやつを楽しみにして、テレビを見て過ごすといった小康状態を保っていましたが、昨年の夏頃からなんとなく元気がなくなりました。11月の半ば過ぎ、尿路感染から再び敗血症に見舞われ、非常に危険な状態に追いやられましたが、再び状態も落ち着き、絶食から食事も再開され、毎日3度の病院食がスムーズに食べられるようになり、回復の兆しが見えてきた矢先のことでした。
入院先の病院は何度か変わりましたが、3年間大阪の高槻市内の自宅から母のいる堺市内の病院まで週2回遠距離介護に通っていました。 残念なことに、亡くなる2週間前は、私がノロウィルスに感染した上に、風邪をひいてしまったりして、全く見舞いに行っていませんでした。その日の夜9時半前に兄から緊急の電話があった時も38度の熱があり、初めは、様子を見ることにしましたが、心配になり、タクシーを呼び、母の入院先の病院に向かうことにしました。その時兄から2回目の電話があり”即、来るように”とかなり緊迫した様子が伝わっていました。それから程なくして来たタクシーに乗り病院に着いた頃にはフラフラになって半分倒れそうでした。 ”こちらのお部屋に移られました”という看護師さんの案内で緊張した面持ちで部屋を入っていくと、広い個室の中で迎えてくれた兄の第一声が ”20分程前に息を引き取ったとこや。” ベッドに寝かされた母に目を向けると顔には、白い布がかぶせられていました。 2週間ぶりの母との再会がこんなに悲しいものになるなんて......人生の厳しい現実を改めて思い知らされました。後で時間を確認すると、実際には、タクシーで家を出たわずか3分後に母は、他界していました。
兄夫婦の話によるとその日の昼食を兄が食べさせてあげるとほぼ全部食べ、午後3時頃に再び訪れると、いつもと変わらず テレビを見て過ごしていましたが、何となく息が荒々しかったとのこと。午後6時半ごろ兄の自宅に病院から”血圧が下がって心配な状態”と連絡があり、駆けつけると、次第に血圧も安定して落ち着き、苦しそうにしている様子もなく眠り始めたので、安心して9時頃一旦帰宅したそうですがそのわずか30分足らずで再び呼び出されたました。この時は、心拍数がどんどん下がり主治医から救命できる見込みはないと告げられ、やがて母の心臓は止まってしまいました。あんなに何度も病院に通ったのに、最期を看取れなかったのが残念で悔しくて.......ただあまり苦しまず安らかに旅立っていったことが、私にとってせめてもの救いでした。(これまでに何度も苦しみを味わっていましたが)
かなり弱ってきてはいましたが、もう少し生きてくれるのではないかと期待していたので、私にとっては、突然の予想外のことでした。今頃嘆いてもどうしようもないのですが、”もっと車椅子に乗せていろいろなところに連れていってあげて楽しませてあげればよかった。”などと後悔が残ります。”もう少し状態が良くなったらこの春こそ咲き乱れる桜の花を間近で見せてやろう。”なんて考えていたのですが、12月、1月の厳しい寒さに頑張って耐えていたのに、春を待たずに逝ってしまったのが本当に可哀想で、悲しいです。今年の桜は私にとって何とも寂しく辛いものになりそうです。それにしても本当にこの3年間よく前向きにがんばってくれました。 ”お母ちゃん、ありがとう。 しばらくゆっくり休んで、この次に生まれ変わる時は、もっと健康に恵まれ、苦労のない幸せな人生を歩んでね。”
2012年12月21日金曜日
現存する世界最古の企業
自民党の圧勝という結果に終わった衆議院選挙。多くの人が民主党の政治に失望した結果なんでしょうが、長年に渡って行われてきた官僚、財界癒着の自民党政治がほんの数年の期間で刷新され生まれ変わるとは思えません。特に緊張が高まっている中国、韓国、北朝鮮といった周辺諸国と更なる軋轢が生じないか不安です。民主党が掲げた脱原発はどうなるのでしょうか?マスコミは、今の日本人の政治志向は一般的に保守的になっていると言っていますが、どうなんでしょうかね.....
これに対する善し悪しはさて置き、保守的で伝統を重んじる日本人の気質によって育まれてきた世界に誇れる技というものがこの国には、多くあるようです。これを裏付けるように、日本には、創業100年以上の企業が全国に2万2219社あり、そのうち創業500年を超える企業は39社存在するそうです。お隣の中国や韓国では、伝統的に商いは卑しい者のすることと見なされていて財を成すと、子どもには学問を奨励し、他の道に進ませるので老舗が殆ど存在しないようです。
日本は世界一最多の老舗企業を有し、現存する創業200年以上の企業が3113社あり2位ドイツ1563社となっています。中でも日本の老舗企業トップは、大阪市天王寺区にある ”金剛組” という建設会社(高松コンストラクショングループ)で、創業は、な、なんと飛鳥時代の578年ということで日本のみならず世界最古の企業として世界的に認定されています。1400年に渡る歴史の中で、主に寺社仏閣建築の設計、施工や文化財建造物の修復に携わってきました。創業から1955年の法人化を挟んで2005年の経営破綻まで金剛一族による経営が存続していましたが、同年11月、高松建設の全額出資により新金剛組が設立されました。
578年、四天王寺を建立するため、聖徳太子が百済から招いた3人の宮大工の中の一人であった金剛重光によって創業されました。593年に四天王寺、603年に法隆寺を創建し、この両寺院を築いた工法は、”金剛組 組み上げ工法” として、現在にも生きているそうです。四天王寺おかかえの宮大工として、戦火などによって7度の焼失に見舞われた四天王寺の再建に歴代の金剛組が取り組みました。他にも大阪城の建設や法隆寺の改築などにも携わりまさに日本の歴史と共に歩んできた企業といえます。
金剛組の伝統的工法である”組み上げ工法”とは、木材を釘などの金物を一切使わずに組み上げていく独特の手法です。釘は一旦緩むと元に戻ることはありませんが、木材を組み合わせたものは、揺さぶってもまた元に戻っていくそうです。こうした伝統に育まれた知恵と技が地震多発国日本において現代まで数多くの貴重な文化遺産を残す源となりました。
永い歴史の中、金剛組は幾度となく時代の波に振り回され、試練と闘ってきました。金剛家は江戸時代まで、四天王寺お抱えの宮大工として、定まった収入を得ていましたが、1868年、明治元年に出された神仏分離令の余波を受けて四天王寺は寺領を失い、金剛組への禄は廃止されました。以後、他の寺社にも進出することを余儀なくされました。昭和に入っても、更に苦難の道は続きました。無類の職人気質であった37代金剛治一は、営業活動には全く興味がなく金剛組の財政は極度に困窮しました。治一はこれを先祖に詫び代々の墓前で自殺しました。妻のよしえが歴代初の女性棟梁として38代を継ぎ、東西に奔走して難を逃れました。
第二次世界大戦中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事には恵まれましたが、寺院関係の仕事は皆無になりました。それに加え、政府による会社統廃合策のために他社に併合される危機にも見舞われましたが、軍事用の木箱を製造するなどして辛うじて社の存続を守りました。
戦後に入り1955年には、39代金剛利隆が経営の近代化を図り、株式会社 金剛組が誕生しました。以後、社寺建築だけでなく、広く一般建築にまで業務を拡大しました。マンションやオフィスビルといった現代建築にも携わりましたが、業界の大手と同じ土俵での価格競争に巻き込まれた結果、経営危機に見舞われ、2005年、高松建設によって救済されました。これにより金剛家一族は経営の表舞 台から撤退せざるをえなくなりましたが、現在も39代金剛利隆氏が相談役として残っておられます。
これに対する善し悪しはさて置き、保守的で伝統を重んじる日本人の気質によって育まれてきた世界に誇れる技というものがこの国には、多くあるようです。これを裏付けるように、日本には、創業100年以上の企業が全国に2万2219社あり、そのうち創業500年を超える企業は39社存在するそうです。お隣の中国や韓国では、伝統的に商いは卑しい者のすることと見なされていて財を成すと、子どもには学問を奨励し、他の道に進ませるので老舗が殆ど存在しないようです。
日本は世界一最多の老舗企業を有し、現存する創業200年以上の企業が3113社あり2位ドイツ1563社となっています。中でも日本の老舗企業トップは、大阪市天王寺区にある ”金剛組” という建設会社(高松コンストラクショングループ)で、創業は、な、なんと飛鳥時代の578年ということで日本のみならず世界最古の企業として世界的に認定されています。1400年に渡る歴史の中で、主に寺社仏閣建築の設計、施工や文化財建造物の修復に携わってきました。創業から1955年の法人化を挟んで2005年の経営破綻まで金剛一族による経営が存続していましたが、同年11月、高松建設の全額出資により新金剛組が設立されました。
578年、四天王寺を建立するため、聖徳太子が百済から招いた3人の宮大工の中の一人であった金剛重光によって創業されました。593年に四天王寺、603年に法隆寺を創建し、この両寺院を築いた工法は、”金剛組 組み上げ工法” として、現在にも生きているそうです。四天王寺おかかえの宮大工として、戦火などによって7度の焼失に見舞われた四天王寺の再建に歴代の金剛組が取り組みました。他にも大阪城の建設や法隆寺の改築などにも携わりまさに日本の歴史と共に歩んできた企業といえます。
金剛組の伝統的工法である”組み上げ工法”とは、木材を釘などの金物を一切使わずに組み上げていく独特の手法です。釘は一旦緩むと元に戻ることはありませんが、木材を組み合わせたものは、揺さぶってもまた元に戻っていくそうです。こうした伝統に育まれた知恵と技が地震多発国日本において現代まで数多くの貴重な文化遺産を残す源となりました。
永い歴史の中、金剛組は幾度となく時代の波に振り回され、試練と闘ってきました。金剛家は江戸時代まで、四天王寺お抱えの宮大工として、定まった収入を得ていましたが、1868年、明治元年に出された神仏分離令の余波を受けて四天王寺は寺領を失い、金剛組への禄は廃止されました。以後、他の寺社にも進出することを余儀なくされました。昭和に入っても、更に苦難の道は続きました。無類の職人気質であった37代金剛治一は、営業活動には全く興味がなく金剛組の財政は極度に困窮しました。治一はこれを先祖に詫び代々の墓前で自殺しました。妻のよしえが歴代初の女性棟梁として38代を継ぎ、東西に奔走して難を逃れました。
第二次世界大戦中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事には恵まれましたが、寺院関係の仕事は皆無になりました。それに加え、政府による会社統廃合策のために他社に併合される危機にも見舞われましたが、軍事用の木箱を製造するなどして辛うじて社の存続を守りました。
戦後に入り1955年には、39代金剛利隆が経営の近代化を図り、株式会社 金剛組が誕生しました。以後、社寺建築だけでなく、広く一般建築にまで業務を拡大しました。マンションやオフィスビルといった現代建築にも携わりましたが、業界の大手と同じ土俵での価格競争に巻き込まれた結果、経営危機に見舞われ、2005年、高松建設によって救済されました。これにより金剛家一族は経営の表舞 台から撤退せざるをえなくなりましたが、現在も39代金剛利隆氏が相談役として残っておられます。
2012年12月2日日曜日
ムサカリ絵馬
今日のテーマに関しては、数年前 夕刊のコラムか何かで初めて知りました。、山形県に明治の初め頃から現在にかけて伝わる風習で、”ムサカリ”とは、土地の方言で”結婚”を意味する言葉だそうです。何らかの事情で若くして亡くなった息子や娘のために、彼らが幻の配偶者と結婚式を挙げている情景を想像して描かせた絵馬をお寺に奉納します。その絵馬を”ムサカリ絵馬”と呼びます。山形の村山地区の社寺に集中して見られ、天童市の若松寺や山形市郊外の立石寺がよく知られているそうです。近年の”ムサカリ絵馬”は写真を合成したものが多く、男女が洋装で教会式の結婚式の風景のものまで登場しているとか。いずれにせよ、親より先に旅立った薄幸な子どもに対して”せめてあの世で良い伴侶に恵まれ、幸せになって欲しい”という切なる親の願いと”我が子の晴れ姿を見たかった”というかなわぬ望みとが重なり、結婚式というおめでたい場面なのに、悲しさと切なさが伝わってくる不思議な絵馬です。
岩手県遠野市では、これと似た”供養絵額”というものを寺院に納める習慣があります。これは亡くなった人があの世で送っているであろう平和な日常生活を想像して大画面に描いたもので、江戸時代に始まり現代まで続いています。 19世紀のアメリカでも”モーニングピクチャー”という亡くなった子を中心とする家族のポートレートが盛んに描かれていたそうです。こちらは、何十年後に描かれたものでも子どもの姿は亡くなった時のままです。
”ムサカリ絵馬”のような”死後結婚”あるいは、”冥婚”の習俗は中国を始めとする東アジアと東南アジアに古くから見られ、人間の女性に見立てた”花嫁人形”を遺体と共に柩に納めるという穏やかなものから、結婚相手として選ばれた人間が殺害され夫婦として共に埋葬されるという非常に過激なものまであるそうです。中国の山東省では、いまだに、誘拐された女性が冥婚のための花嫁として売買され、殉葬させられるという悲劇が存続しています。
ムサカリ絵馬 (1)
ムサカリ絵馬 (2)
岩手県遠野市では、これと似た”供養絵額”というものを寺院に納める習慣があります。これは亡くなった人があの世で送っているであろう平和な日常生活を想像して大画面に描いたもので、江戸時代に始まり現代まで続いています。 19世紀のアメリカでも”モーニングピクチャー”という亡くなった子を中心とする家族のポートレートが盛んに描かれていたそうです。こちらは、何十年後に描かれたものでも子どもの姿は亡くなった時のままです。
”ムサカリ絵馬”のような”死後結婚”あるいは、”冥婚”の習俗は中国を始めとする東アジアと東南アジアに古くから見られ、人間の女性に見立てた”花嫁人形”を遺体と共に柩に納めるという穏やかなものから、結婚相手として選ばれた人間が殺害され夫婦として共に埋葬されるという非常に過激なものまであるそうです。中国の山東省では、いまだに、誘拐された女性が冥婚のための花嫁として売買され、殉葬させられるという悲劇が存続しています。
ムサカリ絵馬 (1)
ムサカリ絵馬 (2)
2012年11月22日木曜日
隠れ念仏と隠し念仏ーキリスト教だけではなかった日本の宗教弾圧
近所のスーパーで買い物をしていると、このところ連日クリスマス関連の音楽が鳴り響き、”今年も残り少くなったな”と思い慌ただしい気分になる。クリスマスといえば、キリスト教徒の祭りであることは言わずもがなである。私は単純なので、アメリカ人などの西洋人は、一様に、日本人の年賀状に相当するものがクリスマスカードだと思っていた。もしあるアメリカ人がユダヤ教徒だったり、回教徒だったりしたら、クリスマスカードを他人から贈られると激怒するらしいので、相手の宗教を確認してからカードを贈らなければならないという。日本人は宗教には寛容であるとよく言われるし、これは、信仰に無関心であることの裏返しであるとも言われる。形式だけの仏教徒が多数を占めるという土壌の中では熱心な信仰を持っている人は、疎ましがられ、宗教そのものを毛嫌いする人も少なくない。先に”形式だけの仏教徒が多数を占める”と書いたが、多くの日本の仏教徒は、何らかの救いを求めて熱心に信仰しているのではなく、葬儀や年忌供養などで寺や僧侶と関わる程度なのではないだろうか。
にもかかわらずかってこの国には、少なくとも2つの異なった熱心な信仰グループが存在した。一つは、禁制後も潜伏し弾圧と迫害の中で信仰を200年以上も守り続けた”隠れキリシタン”と呼ばれた人々、もう一つは、講と呼ばれるネットワークで身分の違いを超えて人々が結びつき、全国規模でそれぞれの講が地下で接触していたと言われる浄土真宗門徒である。この集団は、強力な組織で人々が団結し、一向一揆や石山合戦で支配者を倒したり苦しめた。江戸幕府は西洋人による日本の征服(植民地化)を恐れて、檀家制度(寺請制度)によって寺と家を強制的に結びつけ、キリスト教徒を徹底的に撲滅しようとした。日本人に圧倒的に仏教徒が多いのもこの辺に起因している。だが、それが権力から押し付けられたに等しいものだったので、人々の魂の救済だとか日本人のこころを揺さぶる物にはならなかった。浄土真宗に対してもキリスト教のような全国的な禁制こそしかれなかったが、檀家制度によって、門徒を寺に管理させ、自発的な村の講の念仏活動を禁じた。 九州の一部の地方では、浄土真宗の信仰が全面的に禁止され、東北などでは、浄土真宗系のある念仏信仰が禁止され両地域ともに厳しい弾圧と迫害が300年以上も継続されていた。九州の隠れ信者は、権力から隠れ、東北の隠れ信者はそれに加えて、浄土真宗本山からも隠れていたという。前者は、”隠れ念仏”、 後者は、”隠し念仏”と呼ばれていた。今日は、それぞれの地元以外ではそれほど知られていないこの”隠れ念仏”と”隠し念仏”を取り上げる。 日本人は、本来、非常に信仰心の篤いこころを持っていたが、長年そうしたものが、骨抜きにされていたのだということを感じる。
隠れ念仏
隠れ念仏とは
九州南部の鹿児島、熊本、および宮崎の一部の地方(旧薩摩藩、旧人吉藩)では、近世の300年あまりの間、浄土真宗が禁制になっており、幕藩権力から隠れてその信仰を守り続けた集団で、真宗禁制の弾圧の中、密かに、本山である京都の本願寺とのつながりを保ち、命がけで、多額の志納金を送ったりしていた。
なぜこの地域で真宗が弾圧されたのか
親鸞、蓮如が広めた浄土真宗の念仏の教えは、念仏によって集団を組む門徒たちが、一揆を起こして既製の権力を倒してしまうという中世ー戦国時代に北陸で盛んだった一向一揆を介して、各地の為政者に伝わっていた。当然、権力者は、真宗(一向宗)門徒に対して”恐ろしい”というイメージを抱き、警戒した。とりわけ薩摩藩の真宗門徒は熱心で、彼らから本願寺へ大量の物資が布施として送られていた。ただでさえ苦しい薩摩藩の財政を更に圧迫するのを恐れて禁止したという説もある。薩摩藩では、慶長2年(1557年)、十七代藩主、島津義弘によって書かれた”二十五ヵ条の置き文”において初めて一向宗(真宗)の禁止が公示された。
一方隣の人吉藩では、薩摩藩より早く、弘治元年(1555)、十七代藩主、相良晴広によって出された式目の中で、暗に加賀の一向一揆を理由に真宗禁制の方針が表明された。 相良氏の内訌に乗じて、人吉城に攻め入った北原氏が一向宗伝道の根拠寺である清明寺と関係していたためという説がある。 以降、両藩において300年にわたる禁制が続いた。
どのように信仰したのか
浄土真宗は、蓮如いらい、”講”と呼ばれる組織のネットワークを持っていたが、隠れ念仏の信仰が300年間、地下に潜り続けられた背景にはこのネットワークによるところが大きい。講は ”番役”というリーダーを中心に身分の区別なく組織され、”取次役”を通じて本山の本願寺と繋がっていた。信者たちは、藩の役人に発覚することを恐れて、嵐や雨など悪天候の日を選んで、山中の”ガマ”と呼ばれる暗い洞穴に仏具を隠したり、集って、法座を開いた。戦後、このような洞穴は、”念仏洞”と呼ばれるようになったが、禁制時は、それぞれの講ごとに、密かに念仏洞が設けられていた。薩摩の隠れ念仏の信者達が、真宗が解禁されていた飫肥藩、熊本藩の水俣、高鍋藩などの真宗の寺に薩摩から藩境を超えて度々、”抜参り”をしていたことが記録されている。熊本藩との藩境付近のある村からは、多くの信者たちが、熊本藩水俣の真宗の寺に忍んで行った。その寺の住職や門徒たちは、命がけで監視の目を逃れてやって来る信者たちを歓迎し、寺の本堂の床下に”薩摩部屋”と呼ばれる特別な部屋が設けられ、薩摩の役人が不意に飛び込んでも、発見されないようになっていた。
”隠れキリシタン”が”マリア観音”などの信仰の偽装を行っていたように、隠れ念仏も様々な創意工夫を凝らして自らの信仰を偽装した。傘の形の桐材の容器に親鸞の御影の掛け軸を収めた”傘仏”、まな板に似せた蓋つきの薄い木箱に本尊の掛け軸を収めた”まな板仏”、見かけは箪笥だが扉を開けると仏壇になっているという”隠し仏壇”などが考案された。
拷問と死罪 と仏具の焼却ー逃散
信者の疑いのある者は、藩の役人に捕らえられて自白を強制された。白状するまで続けられたという役人の拷問は、水責め、火責め、水牢、木馬など情け容赦なく残虐を極めたという。拷問の末、白状すれば禅宗に改宗を命じられ、改宗を拒めば処刑された。 武士の場合は、改宗することも許されず、切腹、もしくは、家禄没収のうえ、百姓に落とされ追放となった。 薩摩藩では、”石抱きの拷問”というのも行われ、真宗門徒の疑いのある男子を割れ木の上に正座させて、30キロの平たい石を膝の上に乗せ1枚、2枚、3枚と積み重ねた。5枚になって石の高さがあごの下に及ぶと、皮肉破れ血が流れ骨は砕け、絶命することもあった。
”安楽寺隠れ念仏保存会”によって作詞された”隠れ念仏音頭”の中に”血吹き涙の300年”、”死罪、拷問くりかえす”、”嵐の中のお念仏”という歌詞があり、300年にわたる厳しい弾圧の中で命がけで信仰を守り生き抜いた人々の魂を伝えている。
人吉藩では、地域一帯の信者の家から真宗系の仏像や仏具、仏壇などを探し出してきては、特定の場所で焼却した。その跡地は、”仏像仏具焼却地”として残されており、地元では、”牛や馬を引いて歩いていると、そこにさしかかると足を止めて動かなくなる。”と、長年言い伝えられているそうである。(仏像仏具を焼いた跡だから牛馬も通るのを嫌がる。)
こうした弾圧の中で、九州の隠れ念仏は、北陸の真宗(一向宗)門徒のように一揆という形での抵抗ではなく、土地を捨てて、念仏信仰の自由が許されている隣接諸藩に集団で逃げる”逃散”という形で抵抗した。村ごと逃散するという本格的な集団逃散も行われ、寛政十年(1798)には、2800人の大群衆が、薩摩藩領から隣の飫肥藩領に逃散するという事件が起こった。飫肥藩では、”逃散奉行”と呼ばれる奉行職を設けて逃亡農民に対応した。( 労働力不足に悩む飫肥藩が密かに関わっていたといわれる。)
カヤカベ(カヤカベ教と名乗り現在も信者が存在する)
”カヤカベ”とは、隠れ念仏から派生した一派で、彼らは表面的には神道の信者を装い、本山との関係を絶ち、毎年、霧島神宮への参拝を行っている。しかしその信仰の実態は、親鸞を開祖とする浄土真宗である。信者の家には、神棚があり、それを拝むが、その神棚の壁の向こうには仏像が隠されていたりする。彼らは柏手を打って神棚を拝んでいるふりをして、本当は、隠し仏のほうを拝んでいる。神棚の下の板壁がカヤの木でできた引き戸になっており、一見ただの板張りの壁だが、実は、その奥が隠し仏間になっていることから”カヤカベ”と呼ばれる。
隠し念仏(現在もその信仰が存続している)
隠し念仏は、種々の秘密主義を持つ念仏信仰、民間信仰であるが、その中でも江戸時代を中心に東北地方に広がっていた浄土真宗系の隠し念仏の集団がよく知られているので、ここではそれを取り上げる。東北の隠し念仏の信者たちは、幕藩権力だけでなく、浄土真宗の本山からも異端と見なされたため両方に対して、自らの信仰を隠さざるを得なかった。岩手県を中心として北は青森県のあたりまで、南は、福島県の一部に及び、独特の講という組織で広がっていた。一部の地域では現在もその信仰が存続しており、今でも”信仰を隠し”続けているともいわれている。
基本的には真宗の念仏の信仰であり、本尊として阿弥陀如来像を拝み、親鸞や蓮如の大きな影響を受けている点では、一般の浄土真宗とほとんど変わらない。ただし根本的に違うのはその信仰を表に出さず、ひた隠しにする点である。親鸞や蓮如に起源を求めるものや、京都の鍵屋の流れをくむものなどがあるが、真宗の一派を起源として、その教えの上に東北地方に古くから存在していた土俗的な信仰と、真言密教の儀式などが重なり合って、独特の信仰スタイルになっている。多くの信者は、表向きには曹洞宗などの他の教団の寺の檀家になり、葬式や法事はその寺で行った。表向きに行う葬儀とは別に、隠し念仏の信者たちや講の人が全員集まり、”念仏申し”と呼ばれる儀式も行うといった、完全に二重構造の信仰を持っていた。信者は、既存の寺の教えを表法と呼び、隠し念仏の教えを御内法と呼んでいた。
職業的僧侶や寺院というものは全くなく、徹底して在家の信仰という点にこの信仰の特徴がある。儀式の時にリーダーを務める”善知識”と呼ばれる人も普段は別の仕事を持っており、そのことで報酬を得たり生業にはしない。また、”オモトズケ”や”オトリアゲ”と呼ばれるキリスト教的な儀式がある。子どもが生まれるとすぐに”オモトズケ”という儀式を行い、その子が7歳になると今度は、”オトリアゲ”という儀式を行う。カトリックの幼児洗礼に似ている。
江戸時代、キリスト教禁制を徹底させるために檀家制度が作られ、それは封建制度を支える一つの大きな柱にもなっていた。隠し念仏は、完全に在家の信仰であってどの寺にも属さない。加えて潜伏して活動している信者の信仰の儀式がキリスト教的であったり、真言密教的であったりと、政治権力にとって、当然、不気味であり脅威に感じられただけでなく、浄土真宗の寺院からも許し難い異端と見なされた。仙台藩や盛岡藩では、真宗僧侶の提訴をいれて、隠し念仏の信者に対して、しばしば弾圧が行われた。そういう状況の中、信者たちはさらに深く地下に潜行するようになり、表面的には、禅宗などの他の宗派の寺の檀家になるという形をとって、自分たちの本当の信仰はこころの中に秘め、隠し続けた。信者たちは、土蔵などで密かに集まり儀式を行った。
信者たちが取り締まりや弾圧を受ける度に、皮肉にも秘密結社的な色彩をより強めていき、その秘技性が憶測を生んで、更に異端視されたり、弾圧されることになった。 明治時代になって信教の自由が保障された後も、更に昭和初期でさえも警察がその存在を邪教扱いして不当介入したこともある。マスコミの偏見なども手伝って、深夜に男女が集って、謀略を練っているとか、いかがわしいことをしている宗派だと見られるなど様々な誤解を受け続けた。マスコミなどへの不信感から、今もなお一切を秘密にしている隠し念仏のグループもあり、全体的にも、排他的秘密主義のため、その儀式の全貌は、未だに明らかにされていない。現在も多くの信者達は”口外してはならない”という戒律を守り続け、自分たちの信仰を進んで公にしようとはしない。
東北の隠し念仏について関係者に取材された五木寛之氏が自著の中で、再三述べられているように、この信仰集団は、”良俗を乱す”などと、世間からあらぬ誤解を受け続けたが、決してそのような怪しい宗教ではない。自らの信仰を世間から隠し続けることによって、仲間同士の絆を深め連帯感を強めたといえる。東北という地方は、昔から大量の餓死者を出すほどの凶作に繰り返し苦しめられ、自然環境も厳しい土地柄なので人々の相互扶助の精神、連帯意識が不可欠である。この排他的な信仰が、厳しい冬を生き延びるために必要な人々の仲間意識をより強くする役割を果たしていたのではないか。職業的僧侶も存在せず、寺院も持たず布施もしないという独特の信仰スタイルは、これからの日本人の信仰のあり方について一つの提案を示しているかもしれないと思う。
南九州は、昔から身分差別が厳しく、東北は地主と小作との経済的な格差が激しく、共に決して豊かな地方ではなかった。だからこそ人々にとって念仏の信仰が心の支えになっていた。講という組織の中では武士も商人も農民も平等であったという。厳しい弾圧の中で密かに、現世の世界とは別な次元での世界をこころの中に持ち、同じ精神世界を共有する仲間たちと強い絆で結ばれていた。貧しさの中で念仏を唱える一方で、お互い助け合い支え合っていたのだろう。
核家族化が進み高齢者の一人暮らしが増え、都市化の中の無縁社会と相まって、孤独死、孤立死などが問題になっている。孤独なのは、高齢者だけではない。私たちの気づかないところで、毎日孤独と闘っている人は無数にいるはずだ。こうした孤独な人々を精神的に支え合う将来のネットワーク作りが必要である。人の弱みにつけ込む悪徳宗教団体は困るが、これからは、こうした人々を繋ぎ、強力にバックアップする真摯な宗教的リーダーの活躍が期待される時代ではないだろうか。
参考 「隠れ念仏と隠し念仏」 五木寛之
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