戦争を体験した私の両親の子供時代や青春時代、更にご先祖の時代には、今の時代に比べて、自由がかなり制限されていたという。なるほど今の私たちは、江戸時代や軍国主義の時代になかった”言論の自由”というものを享受している。しかし私たちは、ご先祖様よりもはたして本当に自由に生きることが可能なのだろうか。自由にものを考え、感じることができる環境にあるのだろうか。
現代に生きる私たちの頭の中は、少なくとも ”お金と物” ”教育” ”メディア” ”組織”などに
縛られて、江戸時代のご先祖様よりもある点では、不自由な世界に閉じ込められているのかもしれない。人よりも物質的に恵まれた生活をするために、お金と物に振り回され、学校や親は、子どもたちにそのためには、一生懸命頑張って、”良い学校に行き、良い会社に勤めなさい”と教える。メディアは、”勝ち組、負け組”など画一的な価値観を押し付け、 私たちの頭の中は、洗脳された価値観で一杯になり本来の自分を見失い、自分の中に秘めている独自の感性や個性を埋もれさせてしまう。
更に、会社などの組織の中の複雑な人間関係や世間体などにがんじがらめに縛られていて無意識に本来の自分ではない”誰か”を 演じていたりする。抑圧された自我が悲鳴をあげ続けているのに頑張り続けた挙句、うつだとか閉じこもりといった心の病に蝕まれてしまう人々が増加の一途をたどっている。
今回取り上げる、かってこの国に存在(現在もごく少数だが実在するらしい。)した、”山窩(さんか)”とか”家船(えぶね)”と呼ばれた漂白民は、現代の物質社会、管理社会の中で閉塞感をいだいている人々の間で話題になり、様々なアプローチや研究がなされているようだ。
”今回これらの漂白民を取り上げる”と偉そうなことを言っても、最初に取り上げる”山窩”については私自身Wikipediaなどの情報を読み取っても頭の中は、かなり漠然としていて、いまいち、実態をつかみきれず、謎の部分が多い存在だ。筆者が充分理解していないものを人様に読ませること程失礼なことはないが、何卒、勉強不足な点は、ご勘弁頂きたい。
山窩 (サンカ)
山窩(サンカ)とは
山窩(サンカ)とは、日本の山間部を生活の基盤として、夏期は、川魚漁、冬期は、竹細工などを主な生業としながら、少数集団で 山野を渡り歩く漂白民のことらしいが、その生活実態は、まだ、充分に把握されていないという。”散家”、”山稼”とも書かれ、ポン、ノアイ、オゲ、ヤマモンなどとも呼ばれたそうだ。居住地は、北海道と東北を除く日本全域にわたり、テントを持って漂白する”セブリ”と一般社会に定住している”イツキ”に分けられるらしいが古くは、定住せず、また、親分を持たず誰からも支配や干渉をされない独立、自由の生活を好み、更に農耕に従事しないことを誇りにさえしていたという。
サンカの生業と生活
生業の主なものは、竹細工で、箕、ざる、ささら、茶筅、箒、籠などを作って、人里に出て売ったり、米などと交換したりした。 他に俵ころばし、小法師、四つ竹、うずめ、さかき、てるつく、獅子、たまい、猿舞、猿女などの遊芸や、山守(やもり)、池番(いけす)、川番人(かもり)、田畑番人(のもり)、係船の番人(うきす)など番小屋にあたる仕事も行っていたという。これらの多くが中世、近世の賤民の人々が従事していた仕事と重なるのが興味深いと思う。
テントを持って移動生活を行う”サンカ”は、”セブリ”と呼ばれ、1ヶ所に数日、短ければ1夜で食器類を携えて他の場所に移動する。テントは、山裾や河原などの水の便の良いところに南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人)と呼ぶ自在鉤を下げていた。テント住まいの他、洞穴を利用した簡単な小屋掛けをするものもあり、何を生業とするかで住居の形態も違っていたようだ。麦やうどんを主食として、川魚、小鳥、山菜などを食べた。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯を作り入浴する方法や、地面を焼いて暖を取る方法など、まるで縄文人の生活を彷彿とさせるような古い習俗も伝えられている。
起源
縄文人の末裔説、渡来人説、落人説、中世難民説、近世難民説など様々な説があり一定していない。縄文人の末裔説によれば、大和朝廷によって征服された先住民族であり、原日本人である。農耕をし同化することを拒んだ先住民族の中のいくつかの集団は、平地を追われて山に立てこもり、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らし続けた結果、”サンカ”に至ったということになる。しかし、沖浦和光 は、サンカは比較的新しく、江戸時代に度重なる飢饉で山野に逃れた人々を祖とするという”近世末期起源説”を提起している。
サンカの神秘性
”サンカ’に関しては謎の部分が多く、ある人々の説によれば、 かれらの仲間うちのコミュニケーションは、一般人とは違った言葉と文字を用いて外部の者に知られず連絡を密に取ることができる、”シノガラ”と呼ばれる全国のサンカを支配する秘密結社のような組織を持っている、あるいは、互助組織による経済的な保証システムを持っているというものがある。このようなことによって”サンカ”は、非常に謎めいた神秘的な存在というイメージを拡大しているが、サンカの実態が失われてしまった現代では、事実かどうかの検証が困難になっているそうだ。
家船(えぶね)
家船(えぶね)とは、北九州の西海岸から五島列島、壱岐、対馬、瀬戸内海などに分布していた一群の海上漂白漁民の集団で、方言で”エンブ”とも言われていたらしい。(瀬戸内海では”ノウジ”あるいは”シャア”) 古代海部の系統を引く水軍の末裔とも言われているが詳しいことは、不明である。
本拠地を中心として周辺海域を移動しながら盆と正月を除く1年のほとんどを漂海して過ごす。陸に一片の土地も家も持たず(墓を持つ者はいるらしい。)漁業や行商を生業として、家族全員が生活の一切をまかなう”エブネ”と呼ばれる船の上で暮らしていた。一般の漁民と異なり、女性も船に乗り込み共に働き、頭上運搬で行商するのは女性の役目になっていた。まだ明確にされていないが、女性の抜歯、特定の言葉を忌み嫌うなどいろいろ変わった風習や独特の信仰を持っていたという。漁業権を持たないので、漁業権が設定されていない沖合で一本釣りや小網漁をしていた。周辺の村の者から賤視され、通婚しない、共に食事をしない、祭りの宮座に入れないなどの差別を受けていた。
明治維新の近代化の到来と共に、納税の義務化、徴兵制、義務教育の徹底などの一般庶民の管理化、文化的、物質的な生活の普及によって、漂白生活は困難になり、定住生活を余儀なくされ、現在では消滅したと言われているが、瀬戸内海では今でも家船的な漁業が残っているという。
”サンカ ”や”エブネ”と呼ばれた漂白民の起源はまだ明確にされていないが、いずれにせよ少なくとも近代化の波が彼らに押し寄せてくるまで、この日本列島に縄文人のようなライフスタイルを持つ人々が存在していたというのは凄いことだと思う。ある見方をすれば、近代的な工業化によって、国民の大多数を占めていた農民が激減するまでは、権力者のスタイルは変わっても、庶民にとっては、弥生時代の延長が続いていたといえるかもしれない。 先に述べた漂白民の生業は、中世から江戸時代にかけて賤視された人々の仕事と重なる部分が大きく、私の個人的な考えでは、農耕をして税を治めるという大和朝廷が強要する良民(弥生人的農民)になることを拒んだ人々が、そういう縄文人的ライフスタイルを選び、それらの人々が携わった仕事が賤視されるようになったのではないかと思う。もちろん古代から近代に至るまで漂白民を代々世襲している家系なんて滅多にあるものではない。しかしこうした縄文人的な漂白民のライフスタイルは、様々な事情で社会から逃れてきた人々にも、永い時を経て受け継がれてきたのではないだろうか。
現代の物質文明の恩恵を受け、冷暖房設備の付いた住居に暮らしている私達が、ホームレスな漂白民的生活に馴染むことは、たやすいものではない。 私達が物質文明の進歩によって、便利さ、快適さといった恩恵を随分受けていることには疑いの余地はない。しかしそれによって物とお金の奴隷になり家の中に収まりきれない程の様々な物を手に入れ、必然的に大量のゴミを出している。また物質的に不自由のない文明人として暮らすためにある程度の収入を得なければならないが、そのために会社などの管理化された組織の中で本来の自分を抑圧し自由と個性をある程度犠牲にせざるをえない。
近年、年間の自殺者が3万人を超す(14年連続)という発展途上国ではトップクラスの自殺大国になり深刻な社会問題となっている。その背景は、それぞれに複雑であり一括りにはできないが、失業、多重債務、生活苦、仕事のストレスや人間関係の悩みといった現代の資本主義社会の歪み、物質万能社会、管理社会がもたらす負の側面も影響していると思う。
必要最低限の物だけを所持して物にも土地にも組織にも縛られない”サンカ”、”エブネ”といった縄文人的なライフスタイルを持つ人々は、現代人の目には、おおらかな自由人に映るのだろうか。