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2012年10月31日水曜日

山窩(サンカ)と家船(エブネ)




戦争を体験した私の両親の子供時代や青春時代、更にご先祖の時代には、今の時代に比べて、自由がかなり制限されていたという。なるほど今の私たちは、江戸時代や軍国主義の時代になかった”言論の自由”というものを享受している。しかし私たちは、ご先祖様よりもはたして本当に自由に生きることが可能なのだろうか。自由にものを考え、感じることができる環境にあるのだろうか。

現代に生きる私たちの頭の中は、少なくとも ”お金と物” ”教育” ”メディア” ”組織”などに
縛られて、江戸時代のご先祖様よりもある点では、不自由な世界に閉じ込められているのかもしれない。人よりも物質的に恵まれた生活をするために、お金と物に振り回され、学校や親は、子どもたちにそのためには、一生懸命頑張って、”良い学校に行き、良い会社に勤めなさい”と教える。メディアは、”勝ち組、負け組”など画一的な価値観を押し付け、 私たちの頭の中は、洗脳された価値観で一杯になり本来の自分を見失い、自分の中に秘めている独自の感性や個性を埋もれさせてしまう。

更に、会社などの組織の中の複雑な人間関係や世間体などにがんじがらめに縛られていて無意識に本来の自分ではない”誰か”を 演じていたりする。抑圧された自我が悲鳴をあげ続けているのに頑張り続けた挙句、うつだとか閉じこもりといった心の病に蝕まれてしまう人々が増加の一途をたどっている。

今回取り上げる、かってこの国に存在(現在もごく少数だが実在するらしい。)した、”山窩(さんか)”とか”家船(えぶね)”と呼ばれた漂白民は、現代の物質社会、管理社会の中で閉塞感をいだいている人々の間で話題になり、様々なアプローチや研究がなされているようだ。

 ”今回これらの漂白民を取り上げる”と偉そうなことを言っても、最初に取り上げる”山窩”については私自身Wikipediaなどの情報を読み取っても頭の中は、かなり漠然としていて、いまいち、実態をつかみきれず、謎の部分が多い存在だ。筆者が充分理解していないものを人様に読ませること程失礼なことはないが、何卒、勉強不足な点は、ご勘弁頂きたい。


山窩 (サンカ)


山窩(サンカ)とは


山窩(サンカ)とは、日本の山間部を生活の基盤として、夏期は、川魚漁、冬期は、竹細工などを主な生業としながら、少数集団で 山野を渡り歩く漂白民のことらしいが、その生活実態は、まだ、充分に把握されていないという。”散家”、”山稼”とも書かれ、ポン、ノアイ、オゲ、ヤマモンなどとも呼ばれたそうだ。居住地は、北海道と東北を除く日本全域にわたり、テントを持って漂白する”セブリ”と一般社会に定住している”イツキ”に分けられるらしいが古くは、定住せず、また、親分を持たず誰からも支配や干渉をされない独立、自由の生活を好み、更に農耕に従事しないことを誇りにさえしていたという。


サンカの生業と生活

生業の主なものは、竹細工で、箕、ざる、ささら、茶筅、箒、籠などを作って、人里に出て売ったり、米などと交換したりした。 他に俵ころばし、小法師、四つ竹、うずめ、さかき、てるつく、獅子、たまい、猿舞、猿女などの遊芸や、山守(やもり)、池番(いけす)、川番人(かもり)、田畑番人(のもり)、係船の番人(うきす)など番小屋にあたる仕事も行っていたという。これらの多くが中世、近世の賤民の人々が従事していた仕事と重なるのが興味深いと思う。

テントを持って移動生活を行う”サンカ”は、”セブリ”と呼ばれ、1ヶ所に数日、短ければ1夜で食器類を携えて他の場所に移動する。テントは、山裾や河原などの水の便の良いところに南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人)と呼ぶ自在鉤を下げていた。テント住まいの他、洞穴を利用した簡単な小屋掛けをするものもあり、何を生業とするかで住居の形態も違っていたようだ。麦やうどんを主食として、川魚、小鳥、山菜などを食べた。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯を作り入浴する方法や、地面を焼いて暖を取る方法など、まるで縄文人の生活を彷彿とさせるような古い習俗も伝えられている。 


起源


縄文人の末裔説、渡来人説、落人説、中世難民説、近世難民説など様々な説があり一定していない。縄文人の末裔説によれば、大和朝廷によって征服された先住民族であり、原日本人である。農耕をし同化することを拒んだ先住民族の中のいくつかの集団は、平地を追われて山に立てこもり、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らし続けた結果、”サンカ”に至ったということになる。しかし、沖浦和光 は、サンカは比較的新しく、江戸時代に度重なる飢饉で山野に逃れた人々を祖とするという”近世末期起源説”を提起している。

サンカの神秘性

”サンカ’に関しては謎の部分が多く、ある人々の説によれば、 かれらの仲間うちのコミュニケーションは、一般人とは違った言葉と文字を用いて外部の者に知られず連絡を密に取ることができる、”シノガラ”と呼ばれる全国のサンカを支配する秘密結社のような組織を持っている、あるいは、互助組織による経済的な保証システムを持っているというものがある。このようなことによって”サンカ”は、非常に謎めいた神秘的な存在というイメージを拡大しているが、サンカの実態が失われてしまった現代では、事実かどうかの検証が困難になっているそうだ。








家船(えぶね)



家船(えぶね)とは、北九州の西海岸から五島列島、壱岐、対馬、瀬戸内海などに分布していた一群の海上漂白漁民の集団で、方言で”エンブ”とも言われていたらしい。(瀬戸内海では”ノウジ”あるいは”シャア”) 古代海部の系統を引く水軍の末裔とも言われているが詳しいことは、不明である。

本拠地を中心として周辺海域を移動しながら盆と正月を除く1年のほとんどを漂海して過ごす。陸に一片の土地も家も持たず(墓を持つ者はいるらしい。)漁業や行商を生業として、家族全員が生活の一切をまかなう”エブネ”と呼ばれる船の上で暮らしていた。一般の漁民と異なり、女性も船に乗り込み共に働き、頭上運搬で行商するのは女性の役目になっていた。まだ明確にされていないが、女性の抜歯、特定の言葉を忌み嫌うなどいろいろ変わった風習や独特の信仰を持っていたという。漁業権を持たないので、漁業権が設定されていない沖合で一本釣りや小網漁をしていた。周辺の村の者から賤視され、通婚しない、共に食事をしない、祭りの宮座に入れないなどの差別を受けていた。

明治維新の近代化の到来と共に、納税の義務化、徴兵制、義務教育の徹底などの一般庶民の管理化、文化的、物質的な生活の普及によって、漂白生活は困難になり、定住生活を余儀なくされ、現在では消滅したと言われているが、瀬戸内海では今でも家船的な漁業が残っているという。








”サンカ ”や”エブネ”と呼ばれた漂白民の起源はまだ明確にされていないが、いずれにせよ少なくとも近代化の波が彼らに押し寄せてくるまで、この日本列島に縄文人のようなライフスタイルを持つ人々が存在していたというのは凄いことだと思う。ある見方をすれば、近代的な工業化によって、国民の大多数を占めていた農民が激減するまでは、権力者のスタイルは変わっても、庶民にとっては、弥生時代の延長が続いていたといえるかもしれない。 先に述べた漂白民の生業は、中世から江戸時代にかけて賤視された人々の仕事と重なる部分が大きく、私の個人的な考えでは、農耕をして税を治めるという大和朝廷が強要する良民(弥生人的農民)になることを拒んだ人々が、そういう縄文人的ライフスタイルを選び、それらの人々が携わった仕事が賤視されるようになったのではないかと思う。もちろん古代から近代に至るまで漂白民を代々世襲している家系なんて滅多にあるものではない。しかしこうした縄文人的な漂白民のライフスタイルは、様々な事情で社会から逃れてきた人々にも、永い時を経て受け継がれてきたのではないだろうか。


現代の物質文明の恩恵を受け、冷暖房設備の付いた住居に暮らしている私達が、ホームレスな漂白民的生活に馴染むことは、たやすいものではない。 私達が物質文明の進歩によって、便利さ、快適さといった恩恵を随分受けていることには疑いの余地はない。しかしそれによって物とお金の奴隷になり家の中に収まりきれない程の様々な物を手に入れ、必然的に大量のゴミを出している。また物質的に不自由のない文明人として暮らすためにある程度の収入を得なければならないが、そのために会社などの管理化された組織の中で本来の自分を抑圧し自由と個性をある程度犠牲にせざるをえない。

近年、年間の自殺者が3万人を超す(14年連続)という発展途上国ではトップクラスの自殺大国になり深刻な社会問題となっている。その背景は、それぞれに複雑であり一括りにはできないが、失業、多重債務、生活苦、仕事のストレスや人間関係の悩みといった現代の資本主義社会の歪み、物質万能社会、管理社会がもたらす負の側面も影響していると思う。

必要最低限の物だけを所持して物にも土地にも組織にも縛られない”サンカ”、”エブネ”といった縄文人的なライフスタイルを持つ人々は、現代人の目には、おおらかな自由人に映るのだろうか。














2012年10月16日火曜日

マタギ

宮大工、伝統的な工芸、芸能など日本の伝統を継承していかねばならない世界では、若い後継者を確保し育成していくことが、厳しい状況となっている。例えば、伝統的な工芸の世界で一人前になるためには、少なくとも10年の修行が必要だといわれる。戦前までは、小学校を終えるとすぐに伝統工芸の師匠の下に弟子入りして修行を始めるのが普通だったそうだ。 戦後の高度経済成長によって、国民の所得水準が飛躍的に伸び豊かになると同時に、教育への関心が高まり、ほとんどの子供が高校に進学するようになった。また、工業化を果たした日本には、それほど修行しなくても、見習いの頃から給与がもらえる職業がたくさん生まれ、旧来の徒弟制度の下で、弟子に満足な給与もし払えない伝統工芸の世界に進む若者が激減してしまったのも時代の避けがたい必然.だった。そうした後継者不足という危機的な状況に追い込まれている伝統的な仕事の一つに”マタギ”という職業がある。

”マタギ”とは、もともと主に東北地方の山間部で伝統的な方法を用いて行う集団猟を生業としている狩猟者集団を指す言葉だそうだ。 山の神に対する信仰が厚く、狩猟で山に入る時は、里の言葉とは違った特別な”山言葉”を使い、狩猟期におけるさまざまな禁忌、獲物の分配方法や、山の神への儀礼などが伝承されている。狩猟対象は熊を中心にシカ、イノシシなどで、冬眠中の熊を狙う独特の猟を考案した。猟は”タテ”と呼ばれる手槍を主に、犬を使い、罠猟や、穴ごもりの中のものをおびき出す方法、大規模な共同の狩り(巻狩り)などの方法で行われた。巻狩りの場合、”シカ”と呼ばれる親方のもと、山小屋に泊まり、集団で生活を共にした。獲物を追い込む”セイゴ”、合図を送る”ムカイマッテ”、銃を撃つ”ブッパ”などで構成され、”シカリ”の指図に従い、それぞれが沢、山の中腹、尾根などの各持ち場につき、谷を巡って、獲物を追い出し、尾根で仕留めるそうだ。狩猟期は、冬と春で、毛皮や編笠を被って何日にもわたって山に入り、夏と秋は、山菜やきのこを採ったり、熊胆を作ったり薬草から薬を抽出したりするそうだ。

多くのマタギは、山への敬意を持って狩猟を行った。自然への畏敬の念と感謝の心を持ち、無責任な乱獲は行わなかったので、環境と生態系は、破壊されず、保護されていた。

厳しい雪山の自然の中で、命懸けで猟を行ってきたマタギは、神に対する厚い信仰心と独特の精神世界をもっている。”山は山の神が支配しており、熊などの動物は、神様からの授かりもの”という信念のもと、数多くの禁忌、独特の風習、慣例、儀礼行事(矢先祝い、矢開き、毛祝、血祭り、血祓いなど)がある。 ちなみにマタギの信仰する山の神様は醜女であるとされ、山に女性を入れることは神の怒りに触れるため、女人禁制の掟がある。

マタギが狩猟で得た毛皮や熊胆は高値で取引され、新潟や秋田には、かって、マタギだけで構成されている村が多数存在したらしいが、近年、人口の急激な増加に伴い、山野の野獣が激減したことにより、狩猟で生計を立てることが難しくなっているらしい。加えて、命懸けの厳しい仕事であることから後継者不足の問題もあり、現在では職業としてのマタギは、殆ど行われておらず、伝統の継承が危ぶまれている。(一部引用ー”13歳のハローワーク” 村上龍)

自然への感謝と畏敬の念というマタギの精神世界と信仰心は、アイヌのそれと共通するものがある。マタギが猟で使っている山言葉には、アイヌ語由来と思われるものが多くあるという。こうしたことを考えると彼らは、古代、大和朝廷によって征服され滅ぼされたという ”エミシ”という狩猟民の末裔なのではないかというロマンに駆られてしまう。(”エミシ”と”アイヌ”の継りについては不明であるが、エミシの残存が中世以降に”エゾ”(アイヌ)と呼ばれるようになったのではないかという説がある。)

最近では、競争社会、組織や人間関係のしがらみから逃れて、脱サラしてまであえてこの危険な仕事に転職するユニークな人もいるらしい。



マタギの掟、山言葉については、こちら





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2012年10月9日火曜日

鬼にされた日本の被征服民

日本で日本人の両親のもとに生まれ育つと、ごく自然に自分を、”日本人”だと考える。しかし何千年、何万年に及ぶ歴史を遡ると、私たち日本人は、いくつかの異なる民族に分かれるらしい。それぞれの民族の集団は、何万年もの間に日本列島の東西南北の様々な方向から順次やって来ては、根を下ろし、先にいた民族に戦いを仕掛け、征服し、あるいは、婚姻し、この日本という土地に根付いていった。こうしたことが数万年の間に限りなく繰り返された結果が今の日本人だそうである。私たち日本人は、いくつかの異なる系譜を持った民族集団が複雑に絡み合い、混じりあっており、決して日本人=単一民族ではない。同様に、大陸や半島など外国の異民族からの影響の上に日本の風土に応じての変化が加えられて独特の日本文化なるものが創出された。

この日本列島に最も古くから住んでいる現存の民族は、アイヌ民族だそうである。彼らの血液からのDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかり、これを根拠に、2008年、国会で”アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議”が満場一致で採択された。 縄文時代の終わり頃から、この日本列島に、大陸や半島からの人々が大量に何波にも分かれて、稲作文化と金属器文化を持って移住してきた。この人々は縄文時代からの先住民を制圧して融合しながら勢力を広げ、やがて北部九州から近畿地方まで進出して、”ヤマトの国” (邪馬台国)を建国した。、卑弥呼様の時代には、他の多くの小国を支配下に置いて、現在の奈良県桜井市の辺りを都として北部九州から関東地方辺りまでを統一した。この頃になると当時の文明の先進地帯である中国からも一つの統一された国家として認められ、彼らは、”倭国”と呼びそこに住む人間を”倭人”と呼んでいた。(当時の日本人が自分達の自称を ”わ(我)”と言っていたからという有力な説がある。)

ヤマトの国の政治権力は、やがて天皇を中心に据えた大和朝廷へと発展を遂げ、更に東北、南九州へと領土を拡大していくが、必然的にそれぞれの土地の先住民の激しい抵抗にあう。異民族の征服を目指す朝廷は、南の抵抗勢力を”熊襲(クマソ)”、東や北の抵抗勢力を”蝦夷(エミシ)”と呼んでいた。既に大和朝廷の支配下に入っていた近畿地方などの先住民族の中には、天皇に恭順することに激しく抵抗を続けていた集団もいた。これらの人々は、”土蜘蛛”と呼ばれていた。”熊襲”、”蝦夷”、”土蜘蛛”と朝廷から異族視され征伐の対象とされた人々は、日本の先住民である縄文人の系統でアイヌ民族に近い人々なのではないかと思う。(東北から西日本に至るまでアイヌ語と思われる多くの地名が現存している。)このような朝廷側にとって、まつろわぬ(服従しない)民は、圧倒的な力によって制圧されていった。

それらの”まつろわぬ民”の中でも、”蝦夷”と呼ばれていた日本列島の東方や北方に住む人々の集団が朝廷にとっては、最大級の手ごわい抵抗闘争集団であった。747年朝廷は、2万7千人を派兵して蝦夷の大征伐(征夷)を開始した。騎馬を駆使した巧みな戦術で当初は、蝦夷軍が朝廷軍(征夷軍)に壊滅的な打撃を与えていたが、797年、朝廷側が10万人という大軍を派兵し圧倒的な勝利を治め、”蝦夷”は滅亡の道を余儀なくされた。

こうした戦争の中で朝廷に帰服した蝦夷は、”俘囚”と呼ばれ、中には、捕虜として国内の各地に移配された人々もいた。(強制的な集団移住) 各地の移住先で度々、反乱を起こしたため、朝廷は、彼らを奥羽(東北)へ送還させるが、残った者もいた。彼らは元来、狩猟民で、周囲の農民とは異なる生活様式だったため、疎外、差別され、各地に残った俘囚部落が被差別部落のルーツの一つとなったという説がある。(近年、有力視されている。徳川幕府が身分制度の安定維持のために創出されたという近世政治起源説は、今日では、殆ど破綻している。)

今でも子ども達に語り継がれている日本の昔話の中には、”桃太郎”や”一寸法師”などの鬼退治を扱っているものが多いが、そこには、日本人が忘れてしまった民族の征服、被征服の歴史が織り込まれている。被征服民は、恐ろしい”鬼”と化し、災いをもたらす邪悪な征伐せねばならない対象として描かれている。征服者の侵略を正当化させるために鬼にされてしまったのだろうが、本当は怖い日本の昔話ー鬼退治だったのだ。ちなみに初代の徳川家康から15代の徳川慶喜まで征夷大将軍という役職の地位にあったが、この征夷大将軍とは、まさに大和朝廷の時代から続いている異民族を征伐する軍のトップのこと。(江戸時代の頃には、単に形式的なものとなっていた。)このことから、日本の歴史の中で異民族の征服、侵略に占める比重が決して小さなものではなかったのではないかと思う。





 



2012年10月2日火曜日

ウィルタ、ニヴフ-アイヌだけではなかった日本の少数先住民族

領土などの問題を巡って、隣国の国々と摩擦が生じ、緊張関係が高まっている中で、そもそも日本人とは何か、民族とは何だろう?と、素朴な疑問に駆られます。もともとこの日本列島には、日本民族という共通の言語、文化、生活習慣、宗教を持った大集団など存在しなかったはずです。少なくとも2000年位昔に遡ると、数多くの異なった言語、文化、生活習慣を持った集団 (村、国)が存在して、それらが争いを繰り返していたと思われます。その後、争いを勝ち抜いた強力な集団のもとにまとめられ、日本という一つの国(ヤマト、初期は、現在の九州から関東地方辺りの範囲?)に統一されていったのでしょう。 

 日本とロシアにまたがる北方先住民族の”アイヌ”は、幕末の1854年、ロシアとの和親条約によって北海道が日本領となり、近代化の明治時代に入って、北海道の開拓を推し進めた政府によって、独自の風習が禁じられ、日本語教育を含めた同化政策を強制されるまでは、北海道、千島、樺太の地で、民族独自の言語、文化、宗教を育んでいました。 アイヌの隣人として樺太の地で暮らしていた北方先住民族、”ウィルタ”と、”ニヴフ”も日露戦争の勝利の後、 日本語教育などによる日本人への同化を強いられました。


ウィルタwiki 


ニヴフwiki



" ウィルタ”も”ニヴフ”も主に狩猟、漁猟によって生活を営み、それぞれが独自の言語、文化を所有していた民族でした。 日露戦争後の条約によって、日本が樺太(現在のサハリン)の南半分の領有権を取得したのに伴い、ウィルタとニヴフを含む樺太の少数民族を特定の地域に強制的に住まわせ、日本語指導などの同化教育を受けさせました。にもかかわらず、彼らには、日本国籍を与えなかったと言われています。このような人々の中には、 太平洋戦争において、スパイとしてソ連(当時のロシア)に送り込まれた人々が多数いたと言われています。敗戦後は、戦犯としてシベリアに抑留され強制労働など苛酷な状況に置かれました。抑留解除後は、勝戦国ソ連による樺太全土の占領に伴い、彼らの故郷から追放され、北海道に強制移住させられました。 日本政府は、このことに対して、日本国籍を持たないことを理由に一切の戦後補償、賠償を拒否しました。

現在、北海道内に住むウィルタとニヴフの人々は、それぞれ数十人程度 と言われていますが正確には不明です。(ロシアでは、ウィルタ300人、ニヴフ2000人程度)