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2012年11月22日木曜日

隠れ念仏と隠し念仏ーキリスト教だけではなかった日本の宗教弾圧

 


近所のスーパーで買い物をしていると、このところ連日クリスマス関連の音楽が鳴り響き、”今年も残り少くなったな”と思い慌ただしい気分になる。クリスマスといえば、キリスト教徒の祭りであることは言わずもがなである。私は単純なので、アメリカ人などの西洋人は、一様に、日本人の年賀状に相当するものがクリスマスカードだと思っていた。もしあるアメリカ人がユダヤ教徒だったり、回教徒だったりしたら、クリスマスカードを他人から贈られると激怒するらしいので、相手の宗教を確認してからカードを贈らなければならないという。日本人は宗教には寛容であるとよく言われるし、これは、信仰に無関心であることの裏返しであるとも言われる。形式だけの仏教徒が多数を占めるという土壌の中では熱心な信仰を持っている人は、疎ましがられ、宗教そのものを毛嫌いする人も少なくない。先に”形式だけの仏教徒が多数を占める”と書いたが、多くの日本の仏教徒は、何らかの救いを求めて熱心に信仰しているのではなく、葬儀や年忌供養などで寺や僧侶と関わる程度なのではないだろうか。

にもかかわらずかってこの国には、少なくとも2つの異なった熱心な信仰グループが存在した。一つは、禁制後も潜伏し弾圧と迫害の中で信仰を200年以上も守り続けた”隠れキリシタン”と呼ばれた人々、もう一つは、講と呼ばれるネットワークで身分の違いを超えて人々が結びつき、全国規模でそれぞれの講が地下で接触していたと言われる浄土真宗門徒である。この集団は、強力な組織で人々が団結し、一向一揆や石山合戦で支配者を倒したり苦しめた。江戸幕府は西洋人による日本の征服(植民地化)を恐れて、檀家制度(寺請制度)によって寺と家を強制的に結びつけ、キリスト教徒を徹底的に撲滅しようとした。日本人に圧倒的に仏教徒が多いのもこの辺に起因している。だが、それが権力から押し付けられたに等しいものだったので、人々の魂の救済だとか日本人のこころを揺さぶる物にはならなかった。浄土真宗に対してもキリスト教のような全国的な禁制こそしかれなかったが、檀家制度によって、門徒を寺に管理させ、自発的な村の講の念仏活動を禁じた。 九州の一部の地方では、浄土真宗の信仰が全面的に禁止され、東北などでは、浄土真宗系のある念仏信仰が禁止され両地域ともに厳しい弾圧と迫害が300年以上も継続されていた。九州の隠れ信者は、権力から隠れ、東北の隠れ信者はそれに加えて、浄土真宗本山からも隠れていたという。前者は、”隠れ念仏”、 後者は、”隠し念仏”と呼ばれていた。今日は、それぞれの地元以外ではそれほど知られていないこの”隠れ念仏”と”隠し念仏”を取り上げる。 日本人は、本来、非常に信仰心の篤いこころを持っていたが、長年そうしたものが、骨抜きにされていたのだということを感じる。



隠れ念仏


隠れ念仏とは


九州南部の鹿児島、熊本、および宮崎の一部の地方(旧薩摩藩、旧人吉藩)では、近世の300年あまりの間、浄土真宗が禁制になっており、幕藩権力から隠れてその信仰を守り続けた集団で、真宗禁制の弾圧の中、密かに、本山である京都の本願寺とのつながりを保ち、命がけで、多額の志納金を送ったりしていた。


なぜこの地域で真宗が弾圧されたのか


親鸞、蓮如が広めた浄土真宗の念仏の教えは、念仏によって集団を組む門徒たちが、一揆を起こして既製の権力を倒してしまうという中世ー戦国時代に北陸で盛んだった一向一揆を介して、各地の為政者に伝わっていた。当然、権力者は、真宗(一向宗)門徒に対して”恐ろしい”というイメージを抱き、警戒した。とりわけ薩摩藩の真宗門徒は熱心で、彼らから本願寺へ大量の物資が布施として送られていた。ただでさえ苦しい薩摩藩の財政を更に圧迫するのを恐れて禁止したという説もある。薩摩藩では、慶長2年(1557年)、十七代藩主、島津義弘によって書かれた”二十五ヵ条の置き文”において初めて一向宗(真宗)の禁止が公示された。

一方隣の人吉藩では、薩摩藩より早く、弘治元年(1555)、十七代藩主、相良晴広によって出された式目の中で、暗に加賀の一向一揆を理由に真宗禁制の方針が表明された。 相良氏の内訌に乗じて、人吉城に攻め入った北原氏が一向宗伝道の根拠寺である清明寺と関係していたためという説がある。  以降、両藩において300年にわたる禁制が続いた。


どのように信仰したのか


浄土真宗は、蓮如いらい、”講”と呼ばれる組織のネットワークを持っていたが、隠れ念仏の信仰が300年間、地下に潜り続けられた背景にはこのネットワークによるところが大きい。講は ”番役”というリーダーを中心に身分の区別なく組織され、”取次役”を通じて本山の本願寺と繋がっていた。信者たちは、藩の役人に発覚することを恐れて、嵐や雨など悪天候の日を選んで、山中の”ガマ”と呼ばれる暗い洞穴に仏具を隠したり、集って、法座を開いた。戦後、このような洞穴は、”念仏洞”と呼ばれるようになったが、禁制時は、それぞれの講ごとに、密かに念仏洞が設けられていた。薩摩の隠れ念仏の信者達が、真宗が解禁されていた飫肥藩、熊本藩の水俣、高鍋藩などの真宗の寺に薩摩から藩境を超えて度々、”抜参り”をしていたことが記録されている。熊本藩との藩境付近のある村からは、多くの信者たちが、熊本藩水俣の真宗の寺に忍んで行った。その寺の住職や門徒たちは、命がけで監視の目を逃れてやって来る信者たちを歓迎し、寺の本堂の床下に”薩摩部屋”と呼ばれる特別な部屋が設けられ、薩摩の役人が不意に飛び込んでも、発見されないようになっていた。

”隠れキリシタン”が”マリア観音”などの信仰の偽装を行っていたように、隠れ念仏も様々な創意工夫を凝らして自らの信仰を偽装した。傘の形の桐材の容器に親鸞の御影の掛け軸を収めた”傘仏”、まな板に似せた蓋つきの薄い木箱に本尊の掛け軸を収めた”まな板仏”、見かけは箪笥だが扉を開けると仏壇になっているという”隠し仏壇”などが考案された。


拷問と死罪 と仏具の焼却ー逃散


信者の疑いのある者は、藩の役人に捕らえられて自白を強制された。白状するまで続けられたという役人の拷問は、水責め、火責め、水牢、木馬など情け容赦なく残虐を極めたという。拷問の末、白状すれば禅宗に改宗を命じられ、改宗を拒めば処刑された。 武士の場合は、改宗することも許されず、切腹、もしくは、家禄没収のうえ、百姓に落とされ追放となった。 薩摩藩では、”石抱きの拷問”というのも行われ、真宗門徒の疑いのある男子を割れ木の上に正座させて、30キロの平たい石を膝の上に乗せ1枚、2枚、3枚と積み重ねた。5枚になって石の高さがあごの下に及ぶと、皮肉破れ血が流れ骨は砕け、絶命することもあった。


”安楽寺隠れ念仏保存会”によって作詞された”隠れ念仏音頭”の中に”血吹き涙の300年”、”死罪、拷問くりかえす”、”嵐の中のお念仏”という歌詞があり、300年にわたる厳しい弾圧の中で命がけで信仰を守り生き抜いた人々の魂を伝えている。

人吉藩では、地域一帯の信者の家から真宗系の仏像や仏具、仏壇などを探し出してきては、特定の場所で焼却した。その跡地は、”仏像仏具焼却地”として残されており、地元では、”牛や馬を引いて歩いていると、そこにさしかかると足を止めて動かなくなる。”と、長年言い伝えられているそうである。(仏像仏具を焼いた跡だから牛馬も通るのを嫌がる。)


こうした弾圧の中で、九州の隠れ念仏は、北陸の真宗(一向宗)門徒のように一揆という形での抵抗ではなく、土地を捨てて、念仏信仰の自由が許されている隣接諸藩に集団で逃げる”逃散”という形で抵抗した。村ごと逃散するという本格的な集団逃散も行われ、寛政十年(1798)には、2800人の大群衆が、薩摩藩領から隣の飫肥藩領に逃散するという事件が起こった。飫肥藩では、”逃散奉行”と呼ばれる奉行職を設けて逃亡農民に対応した。( 労働力不足に悩む飫肥藩が密かに関わっていたといわれる。)


カヤカベ(カヤカベ教と名乗り現在も信者が存在する)


”カヤカベ”とは、隠れ念仏から派生した一派で、彼らは表面的には神道の信者を装い、本山との関係を絶ち、毎年、霧島神宮への参拝を行っている。しかしその信仰の実態は、親鸞を開祖とする浄土真宗である。信者の家には、神棚があり、それを拝むが、その神棚の壁の向こうには仏像が隠されていたりする。彼らは柏手を打って神棚を拝んでいるふりをして、本当は、隠し仏のほうを拝んでいる。神棚の下の板壁がカヤの木でできた引き戸になっており、一見ただの板張りの壁だが、実は、その奥が隠し仏間になっていることから”カヤカベ”と呼ばれる。






隠し念仏(現在もその信仰が存続している)


隠し念仏は、種々の秘密主義を持つ念仏信仰、民間信仰であるが、その中でも江戸時代を中心に東北地方に広がっていた浄土真宗系の隠し念仏の集団がよく知られているので、ここではそれを取り上げる。東北の隠し念仏の信者たちは、幕藩権力だけでなく、浄土真宗の本山からも異端と見なされたため両方に対して、自らの信仰を隠さざるを得なかった。岩手県を中心として北は青森県のあたりまで、南は、福島県の一部に及び、独特の講という組織で広がっていた。一部の地域では現在もその信仰が存続しており、今でも”信仰を隠し”続けているともいわれている。

基本的には真宗の念仏の信仰であり、本尊として阿弥陀如来像を拝み、親鸞や蓮如の大きな影響を受けている点では、一般の浄土真宗とほとんど変わらない。ただし根本的に違うのはその信仰を表に出さず、ひた隠しにする点である。親鸞や蓮如に起源を求めるものや、京都の鍵屋の流れをくむものなどがあるが、真宗の一派を起源として、その教えの上に東北地方に古くから存在していた土俗的な信仰と、真言密教の儀式などが重なり合って、独特の信仰スタイルになっている。多くの信者は、表向きには曹洞宗などの他の教団の寺の檀家になり、葬式や法事はその寺で行った。表向きに行う葬儀とは別に、隠し念仏の信者たちや講の人が全員集まり、”念仏申し”と呼ばれる儀式も行うといった、完全に二重構造の信仰を持っていた。信者は、既存の寺の教えを表法と呼び、隠し念仏の教えを御内法と呼んでいた。

職業的僧侶や寺院というものは全くなく、徹底して在家の信仰という点にこの信仰の特徴がある。儀式の時にリーダーを務める”善知識”と呼ばれる人も普段は別の仕事を持っており、そのことで報酬を得たり生業にはしない。また、”オモトズケ”や”オトリアゲ”と呼ばれるキリスト教的な儀式がある。子どもが生まれるとすぐに”オモトズケ”という儀式を行い、その子が7歳になると今度は、”オトリアゲ”という儀式を行う。カトリックの幼児洗礼に似ている。

江戸時代、キリスト教禁制を徹底させるために檀家制度が作られ、それは封建制度を支える一つの大きな柱にもなっていた。隠し念仏は、完全に在家の信仰であってどの寺にも属さない。加えて潜伏して活動している信者の信仰の儀式がキリスト教的であったり、真言密教的であったりと、政治権力にとって、当然、不気味であり脅威に感じられただけでなく、浄土真宗の寺院からも許し難い異端と見なされた。仙台藩や盛岡藩では、真宗僧侶の提訴をいれて、隠し念仏の信者に対して、しばしば弾圧が行われた。そういう状況の中、信者たちはさらに深く地下に潜行するようになり、表面的には、禅宗などの他の宗派の寺の檀家になるという形をとって、自分たちの本当の信仰はこころの中に秘め、隠し続けた。信者たちは、土蔵などで密かに集まり儀式を行った。

信者たちが取り締まりや弾圧を受ける度に、皮肉にも秘密結社的な色彩をより強めていき、その秘技性が憶測を生んで、更に異端視されたり、弾圧されることになった。 明治時代になって信教の自由が保障された後も、更に昭和初期でさえも警察がその存在を邪教扱いして不当介入したこともある。マスコミの偏見なども手伝って、深夜に男女が集って、謀略を練っているとか、いかがわしいことをしている宗派だと見られるなど様々な誤解を受け続けた。マスコミなどへの不信感から、今もなお一切を秘密にしている隠し念仏のグループもあり、全体的にも、排他的秘密主義のため、その儀式の全貌は、未だに明らかにされていない。現在も多くの信者達は”口外してはならない”という戒律を守り続け、自分たちの信仰を進んで公にしようとはしない。

東北の隠し念仏について関係者に取材された五木寛之氏が自著の中で、再三述べられているように、この信仰集団は、”良俗を乱す”などと、世間からあらぬ誤解を受け続けたが、決してそのような怪しい宗教ではない。自らの信仰を世間から隠し続けることによって、仲間同士の絆を深め連帯感を強めたといえる。東北という地方は、昔から大量の餓死者を出すほどの凶作に繰り返し苦しめられ、自然環境も厳しい土地柄なので人々の相互扶助の精神、連帯意識が不可欠である。この排他的な信仰が、厳しい冬を生き延びるために必要な人々の仲間意識をより強くする役割を果たしていたのではないか。職業的僧侶も存在せず、寺院も持たず布施もしないという独特の信仰スタイルは、これからの日本人の信仰のあり方について一つの提案を示しているかもしれないと思う。
  


南九州は、昔から身分差別が厳しく、東北は地主と小作との経済的な格差が激しく、共に決して豊かな地方ではなかった。だからこそ人々にとって念仏の信仰が心の支えになっていた。講という組織の中では武士も商人も農民も平等であったという。厳しい弾圧の中で密かに、現世の世界とは別な次元での世界をこころの中に持ち、同じ精神世界を共有する仲間たちと強い絆で結ばれていた。貧しさの中で念仏を唱える一方で、お互い助け合い支え合っていたのだろう。

核家族化が進み高齢者の一人暮らしが増え、都市化の中の無縁社会と相まって、孤独死、孤立死などが問題になっている。孤独なのは、高齢者だけではない。私たちの気づかないところで、毎日孤独と闘っている人は無数にいるはずだ。こうした孤独な人々を精神的に支え合う将来のネットワーク作りが必要である。人の弱みにつけ込む悪徳宗教団体は困るが、これからは、こうした人々を繋ぎ、強力にバックアップする真摯な宗教的リーダーの活躍が期待される時代ではないだろうか。


参考  「隠れ念仏と隠し念仏」 五木寛之